吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

福田村事件

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 関東大震災から百年を期して、ついに朝鮮人虐殺事件がテーマとなる作品が公開された。ドキュメンタリー監督として高名な森達也がどうしてもドラマとして撮りたかったというのは、日本人9名が朝鮮人と間違えられて惨殺された福田村(現・千葉県野田市)事件である。

 冒頭、列車の中で遺骨を抱く喪服の「未亡人」の姿が。夫の死は「名誉の戦死」だと思い込もうとする彼女は、地元の駅に降り立つ。1923年夏、この時に名誉の戦死を遂げる戦争とはなにか? それはシベリア出兵である。1917年のロシア革命への干渉戦争として1918年に始まったシベリア出兵で、日本は3000人の死者を出した(日本大百科全書ニッポニカより)。第1次世界大戦に参戦しながらほぼ無傷だったはずの日本なのに、シベリア出兵では無駄に死者を出したことはあまり知られていない。そのような史実をこの映画ではほぼ説明しないため、予習が必要なところだ。しかもシベリア撤兵からすでに1年近くが経った時点で遺骨が戻ってくるという映画の設定が史実に合っているのかどうかは不明である。

 その未亡人と車中で会話を交わすのが主人公の澤田夫妻であり、夫・智一は植民地朝鮮で教師をしていたが、辞めて帰村しようとしていた。妻の静子は見るからにお嬢様育ちの女性である。二人は夫の郷里である千葉県福田村へと戻っていき、智一は農民として生きていこうとしている。そのころ、香川県を旅立った薬売りの行商人一行15人は千葉県にさしかかっていた。この一行は被差別部落の人々であり、彼らの口からは被差別のつらさがほろりとこぼれ、朝鮮人を蔑視する言葉も出てくる。

 映画は運命の日、9月6日に向かって動いていく。9月1日には大震災が起き、たちまち「朝鮮人が井戸に毒を入れた、家に火をつけた、集団で襲ってくる」という流言飛語が飛び交うこととなる。なぜそのようなデマに人々が簡単に飛びついたのか。植民地支配への朝鮮人の不満は高まっており、震災の4年前には三一独立運動が朝鮮全土で起きていた。また、第1次世界大戦後の「大正デモクラシー」の風潮にあって労働運動は盛り上がり、警察の弾圧も過激化していく。貧しい身なりの行商人への蔑視や、異文化への排外意識もあっただろう。

 そのような背景のもとに、福田村事件は起きた。同時に、この映画では東京で起きた亀戸事件の社会主義者虐殺現場も描くため、亀戸と福田村との時空間の移動がやや把握しづらいかもしれない。

 この映画で描かれるのはハンセン病患者、部落差別、朝鮮人差別、社会主義者への偏見と弾圧……。一方で、正義を貫こうとする若き女性記者がいて、流言飛語・虐殺の現場を目撃した彼女は上司の指示に逆らってでも真実を報道しようとする。

 時代の大きな流れのなかで虐殺事件が起きたことを知るために、最低限の歴史のおさらいは必要だろう。野田醤油争議の風景も歴史的背景の一つとして点描されている。

 この映画では加害者である福田村の人々の震災前の生活がじっくりと描かれる。福田村の村長と主人公は幼馴染で、彼らが村で唯一のインテリのようである。しかし彼らは悲しきインテリであり、虐殺を止めることもできなかった。在郷軍人を中心とする自警団は血気にはやり、「お国を守る」ことを大義として行商団の一行を殺してしまう。

 後半のクライマックスであるこの虐殺場面で一気に緊張感がみなぎる。見知らぬ行商人一行を見た人々は興奮し、手に手に竹やりや農具を持ち、大声で喚く。「お前ら、朝鮮人じゃないのか」と。必死で止めようとする村長や駐在の言葉も聞く耳を持たない興奮した民には届かない。

 そこに響く凛とした、腹の底からの言葉。「朝鮮人なら殺してもええんか!」。このセリフを語った永山瑛太は本作で存在感ある演技を見せている。何が惨劇の引き金になるのか、誰にも予想できないだろう。この事件も実際にどうだったのかはともかく、「無辜の民」が最初の一撃をくらわせたことから殺戮の火ぶたが切って落とされた。

 何よりも印象に残ったのは、加害者側の嘆きだ。「俺たちはこれからもここで生きていかなくてはならねぇんだ」という言葉が持つ絶望感が、その後100年近くも地元から正式な追悼や謝罪の言葉が聞こえてこなかった要因だろう。負の歴史を直視することはつらすぎる。

 平沢計七の亀戸事件を挿入したのは余計だったかもしれない。場面が福田村と亀戸に分かれてしまい、その間を行き来する女性記者の動きも不自然さをぬぐえない。亀戸事件について知識のない観客が見ると混乱してしまうだろう。とはいえ、この時殺されたのが朝鮮人だけではなく、社会主義者労働運動家が惨殺されたことを描くには必要だったともいえる。

 雑誌『創』2023年9月号に森達也監督と瀬々敬久監督の対談が載っていて、これがむちゃくちゃ面白かった。瀬々さんが森さんに「最初の場面なんか見てられないぐらい下手」とか思い切り貶めているのには思わず笑った。

<10月29日追記>

 この映画は予想外にヒットしていて、いまだに映画館でかかっているのはよかった。しかし、話題になればなるほど毀誉褒貶が激しく、あらゆる角度からの批判が続く。わたし自身はこの映画が関東大震災から100年を経てようやく作られた初めての、朝鮮人虐殺を扱ったドラマとして高く評価している。完成度については確かに百点ではないだろうが、完璧な映画というのがどれほど多く作られているのか考えてみれば、瑕疵があるのは当然と思われる。わたしにとって違和感があったのは性描写の多さであり、場面転回が上手くできていない(編集がよろしくない)部分が一部あるのと、女性記者の設定に不自然さを感じたことぐらいであって、それよりも、この映画を嚆矢として関東大震災朝鮮人中国人虐殺・社会主義者虐殺問題について次々と作品が作られればいいと思っている。ナチスを描いた映画は飽きるほど作られているのに、関東大震災を描いた映画は驚くほど少なく、この作品一本にすべてを求めることがそもそも間違っている。

 この映画に就て語り合う会が過日持たれた。集まったのは6人の映画好きで、わたしにとっては初めて会う人もいたし、FBでしか出会ったことのない人もいた。それぞれに違和感も述べられたが、全員が一致してこの作品に対するリスペクトを忘れていなかったことが何よりよかったと思っている。わたしは映画をけなすために見ているのではない。映画ファンなのだから、映画を楽しみ、映画から学ぼうと思って見ている。だから、たとえ文句をつけようが不十分点を批判しようが、基本的に映画そのものと製作者に対する敬意は持っているつもりだ。

 しかし、「福田村事件」に関しては、どうもそうではない人たちからの批判・非難が多いような気がするのは気のせいだろうか。あるいは、一つの尺度で切って捨てること自体にわたしは賛同できないものを感じる。「女性の裸体を不必要に登場させすぎ」という非難がその一つだ。確かにそれは言える。しかし、荒井晴彦脚本なんだからそれはしょうがないねえとわたしは思っていた。

 ほかには、某記者が ”この映画で行商人一行に対する惨劇の火ぶたを切ったのが女性であったこと” に痛烈な批判を書いている人もいた。これはむしろわたしは、最も底辺に位置する女性が被害者から加害者へと一瞬にして転回するすごい場面だと思ったのだが。

 まあとにかくいろいろと言われているというのはよいことかもしれない。

2023
日本  Color
監督:森達也
企画:荒井晴彦
出演:井浦新田中麗奈永山瑛太東出昌大コムアイ、木竜麻生、松浦祐也、向里祐香、ピエール瀧水道橋博士豊原功補柄本明