吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

陸軍前橋飛行場 私たちの村も戦場だった

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 1940年1月から大量の日記をつけ続けていた人物がいた。その名は住谷修。そこには詳細に戦時下の村の様子がつづられ、軍によって強制的に田畑を徴収されたことも記録されていた。戦争の日々を冷静な目で描写するその筆致は時に辛辣で、村民への批判も容赦ない。その膨大な手書きノートを戦後になって本人は清書しようとした。その清書を手伝わされたのが息子の住谷佳禹(よしのぶ)さん。映画の中で住谷佳禹さんは膨大な文書群に囲まれて、自分が清書した「村日記」を前に思いを語る。その日記につづられた戦火の記憶を、今も健在の老人たちからの証言によってさらに豊かにしていくのがこの記録映画である。
 映画としては全体に大変地味だけれど、それはある意味しかたのないことだ。当時の生々しい映像はほとんど残っていないだろうし、当事者たちが文字情報しか残していないとなると老人たちの証言集にならざるをえない。しかしその老人たちの証言が70年以上経っても生々しいことに驚く。とりわけ空襲の記憶はくっきりと残っているようで、誰もがその悲惨な状況を昨日のことのように語るのだ。
 そういえば、うちの母も小学生高学年の時に米軍機に追いかけられた話を何度もしていたなぁとわたしは映画を観ながら思い出していた。操縦士の顔まではっきり見えたという母は、必死に走って近所の民家に飛び込んだという。それは滋賀県の田舎の話だから、そんなところを空襲する予定でもなく、米軍の飛行士は遊び半分で女の子を追いかけたのだろう。本人にとっては一生忘れられない、「あんなに怖い思いをしたのは二度とない」と言っていたぐらいにトラウマとなったのに。

 この映画の舞台となった前橋飛行場があった地域は今でも田園地帯である。飛行場の名残となる場所も登場する。軍が接収した畑を飛行場にするために動員された人たちも証言する。その当時は小学生だった人、高等小学校に通っていた人などが、「囚人や朝鮮人も働かされていた」と語る。「トロッコを押していたのが韓国人で、日本人は二人で一台のトロッコを押すが、韓国人は一人一台を押していた。彼らの給料は日本人の二倍だったよ(笑)」
 地元でずっと生活を続けている老人が多いことに驚く。しかも記憶が鮮明である。中にはしゃべりながら感極まって泣き始める人もいて、わたしももらい泣きしそうになった。

 1943年から1年以上かけてようやく44年8月に完成した前橋飛行場は特攻隊の訓練場としても使用された。ここから飛び立った若者のほとんどが帰ってこなかった。出撃の日の朝を思い出して証言する女性の言葉は涙なしには聞けない。

  強制徴用、学徒動員、敗色濃厚となる日々を日記は淡々とつづる。ついに前橋市内が業火に焼かれた空襲の日がやってくる。その記録写真はアメリ国立公文書館(NARA=National Archives and Records Administration 国立公文書記録管理局)に保存されていた。ここで元総理大臣福田康夫が登場する。彼は2009年に成立した公文書管理法の立案に尽力した人物だ。そもそもは、アメリカで前橋空襲の記録写真を見たことが公文書管理に興味を持ったきっかけだという。「ほとんど面倒な手続きもなく空襲の写真を閲覧することができた。外国のことなのに、アメリカではこんなにきちんと保存しているなんて。こういうことが日本でもできたらいいなぁと思うようになった」
 これに関連して、上映後の解説トークでは天理大学の古賀崇氏(公文書管理、アーカイブズ研究が専門)が次のように語った。
アメリ国立公文書館にあった写真などは、アメリカの戦果としての記録である。そこは気を付けておかねばならない。文書を残すのはアメリカにとって過去の戦争を正当化するための意味もあることは否定できない」
 つまり、公文書を残すのは、政府が自らの行為を正当化するため、という目的があることにも留意せねばならない、という指摘だった。 
 映画の最後に再び「村日記」と住谷佳禹さんの姿が映し出される。彼も既に八十歳近い今、この「村日記」はどうなるのだろう? このままずっと住谷家の家宝として保存されていくのだろうか。それとも、県公文書館や歴史館のような公的な機関に寄贈されるべきなのか? 父の住谷修は「村日記」の最後にあることを記している。その文言はある意味衝撃的だ。その気持ちを遺族が受け継ぐとしたら、この資料はどこに保存されるのが最適なのだろうか。そんなことを深く考え込んだラストだった。


※古賀崇氏の解説トークの記録(文責:谷合佳代子)
アメリ国立公文書館徹底ガイド』を紹介。監督もこれを手掛かりにしたか。
中島飛行場とかを撮影した地図が映画に出ていた。前橋の空襲の記録がアメリ国立公文書館にあってすぐに写真が出てきた。それを福田康夫が見たのが公文書管理法案を作るきっかけになった。というのは事実その通り。アメリカは戦果として記録していた。アメリカにとっての記録である。
NARAから歩いてすぐのところにスミソニアン歴史博物館がある。アメリカにとっての戦争の意味を端的に示す展示がある。「price of freedom」と表現されている。ベトナム戦争湾岸戦争の展示もある。
NARAの近くにさらに「ニュージアム」という民間の博物館がある。民間のジャーナリストの立場からの博物館。国とは一線を画す。言論・報道の自由つまり政府を批判する自由。そのためにこういう活動を行なってきたということが展示されている。
 文書を残すのはアメリカにとって過去の戦争を正当化するための意味もあることは否定できない。

 ※この解説のもととなった文章は下記で読めます。

天理大学総合教育研究センター『CRADLE』7号(2015年5月)所収の「ワシントンDCという街について:「文化資源」の側面を中心に」

http://www.tenri-u.ac.jp/cle/dv457k0000000e12-att/cradle_07.pdf

日本、2018、69分
製作・監督:飯塚俊男