吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。

残された者 -北の極地-

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 紅白歌合戦などは見向きもせず、ぬくぬくとした自宅の居間に寝そべりながら見たのはこの北の極地の物語。わたしが役者だったら絶対にあんな映画には出たくない!という寒くてたまらない過酷な撮影だったに違いない。

 映画はいきなり小型飛行機が雪原に埋もれている場面から始まる。マッツ・ミケルセンが一人で黙々と雪の地面を掘るような作業していて、氷の中に糸を垂らして魚を釣ったりしている様子が映るのだが、なにせ台詞も説明もないから何をしているのかわからない。が、たちまちカメラが鳥瞰の位置につくと、彼がしていた作業が「SOS」の文字を白い地面に描くことであったのがわかる。この衝撃的な場面、彼の状況を説明するのにこれ以上のショットはあり得ない。

 彼はどうやら遭難したようで、毎日救助を待っているのだが、なかなか来ない。で、やっとヘリコプターがやってきたと思ったらあっという間に墜落。で、乗組員のうち女性だけが助かるが、彼女は重傷で動けない。自分一人のサバイバルならなんとかなるかもしれないのに、とんだお荷物を背負い込んでしまったマッツだが、懸命にその若い女性を助けようとする。で、じっとしたらいいのにとわたしは思うのだが、じっとしないのだな、これが。ソリに女性を載せて引きずりながら徒歩で北極観測基地まで脱出行を試みる。いやー、それは無理っしょ。

 という、究極のサバイバル。食料は? 水は? 熱源は? 白熊さんもいますよ。第一、女性は重傷で意識があるのかどうかも怪しい。あんな調子では1日10キロ行くのが限界だろう。しかしマッツは諦めない。地図を頼りにひたすら歩き出す。

 この後、もちろんいろんな絶望的なシーンが繰り返され、白い雪原を行く二人には刻一刻と死が近づいてくる。ここまで努力して報われずに死ぬのなら、最初から遭難飛行機の中にじっとしてたほうがましではないのか?

 この映画はほとんど台詞がなく、マッツの職業も過去も遭難のいきさつも何も説明がない、ただ目の前にある状況だけが映し出されていく。観客は「現在」の彼の状況に没入し、彼と一緒にサバイバルを体験する。もう無理だ!諦めよう! わたしは何度も心でそう叫びながら、温かい部屋にいることも忘れそうなぐらいにイライラと疲れてくる。

 こんなとんでもない映画、これが実話だったらたまらないのだけれど、フィクションである。フィクションだからか、細部の描写に疑問が残る。寝たきり女性の排泄はどうしたのか? なんでほとんど食べていないのに生きていられるのか? しかし映画はそんなことにはお構いなく、ひたすら過酷なサバイバルに挑む男の姿を抉り出していく。

 じっとしていれば助かったかもしれない、救助が来たかもしれない。そんな希望にすがるよりも、一か八かの脱出を試みる、一歩でも今の状況から抜けることを考える、それが人間の性(さが)なのだろうか。マッツ・ミケルセンの渾身の演技に背筋も凍る。女がただ助けられるだけの存在という潔い設定も「政治的正しさ」を無視してわが道をゆく作品である。(Amazonプライムビデオ)

2018
ARCTIC
アイスランド  Color  97分
監督:ジョー・ペナ
製作:クリストファー・ルモールほか
脚本:ジョー・ペナ、ライアン・モリソン
撮影:トーマス・ウルン・トーマソン
音楽:ジョセフ・トラパニーズ
出演:マッツ・ミケルセン、マリア・テルマ

パーフェクト・ノーマル・ファミリー

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 ある日突然、両親が離婚するという。その理由が「パパが女性になりたいから」だと聞けば二度びっくり。というよりも驚天動地の、世界が裏返るような出来事に違いない。とりわけ思春期に差し掛かる難しい年ごろの少女にとっては言葉にできない思いがあるだろう。この映画は、大好きな父親が女性になってしまったという衝撃を受け止められずに苦悩する少女の物語。監督自身の実体験を元に作られている。

 デンマークの郊外で暮らす典型的な中産階級と思われる一家は、毎日幸せに過ごしていた。11歳のエマはサッカーに夢中で、そんな彼女に手ほどきしたのも大好きなパパだった。しかしある日、一家団欒の食事が始まるや両親の離婚を告げられ、その場で凍り付いた娘たちはそれなりの葛藤を経て平常心を取り戻そうとする。14歳の姉カロリーネはすぐに父の女性化を受け止めたようだが、エマにはそれができない。

 ホルモン注射を受けてどんどん外見が変わっていく父にも違和感を覚えるエマ。サッカーを通じて共感し愛情を深めていたはずの親子なのに、そのサッカーももはや二人の絆をつなぎとめることができない。学校の友人たちには陰口をたたかれ、恥ずかしい思いを抱えている大人しいエマと、父のトランスに理解を示す美しく大人びた姉カロリーネとが対比されて描かれている。

 エマを演じた子役のカヤ・トフト・ローホルトが繊細な演技を見せて見事だ。その不安や恥じらいや悲しみを、まさに目の前にいる一人の儚げな少女の存在を実感させるリアリティを以て観客に差し出している。

 日本の場合、両親が離婚すれば子どもは母親に引き取られるケースが圧倒的に多いが、この映画では娘たちをトランスジェンダーの父が引き取っている。彼らは元々裕福な中産階級であっただろう。知的レベルも高い一家であることがうかがわれるし、離婚してひとり親になっても生活レベルが下がったようには見えない。父がタイで性別適合手術を受けるだけの経済的余裕もある。とりあえず経済的な不安はなさそうな一家の中で、「これからはアウネーテと呼んで」という父親への反発を募らせるエマは、怒りを爆発させこじらせていく。

 観客はすっかりエマの視線に同調し、ハラハラするだろう。アイデンティティの変化や愛情の複雑な表出、そういったこの時期の少女に特有の精神的不安定さに輪をかける出来事に直面しているエマに、思わずエールを送りたくなる。

 日本よりはるかに多様性を尊重するデンマークでも、ほんの20年ほど前はこの映画に描かれたような偏見が満ちていたのであろう。タイトルの「パーフェクト・ノーマル」には皮肉が込められていると同時に、どんな家族でも愛と信頼さえあれば、それでパーフェクト、という理想も練りこまれているのではないか。「パーフェクト」な家族なんてないんだ、「パーフェクト」でなくたって構わない。見終わった後、「パーフェクト・ノーマル」の意味を様々に考えさせられる。(機関紙編集者クラブ「編集サービス」に掲載した拙稿を元に追記)

2020
EN HELT ALMINDELIG FAMILIE
デンマーク  Color  97分
監督:マルー・ライマン
脚本:マルー・ライマン
出演:カヤ・トフト・ローホルト、ミケル・ボー・フォルスゴー、リーモア・ランテ、ニール・ランホルト

水俣曼荼羅

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 6時間を超える上映時間。途中2度の休憩をはさんで、三部作に分かれている。劇場では都合6時間半かけて見ることになる壮大なドキュメンタリーだが、まったく飽きることがない。その理由は、この作品が曼荼羅というタイトルにふさわしく大勢の登場人物たちに肉薄し、時に違和感を与えるような描写も含めて、観客を逃がさないからだ。心地よく映像や音楽が流れる作品ではない。心に棘が刺すような瞬間もあり、冷汗が出る思いにかられる場面もあり、水俣病患者の闘いに傍観者ではいられない「居心地の悪さ」をも感じてしまう。かといって、決して堅苦しい映画ではない。笑いあり、涙あり、原一男監督もインタビュアーの立場をうっかり踏み越えて登場人物の一員になってしまう愛嬌ある場面もあり、終わってみれば6時間半が過ぎていた、まだ続きが見たいと思わせるドキュメンタリーである。

 水俣病は終わっていない。そのことを伝えるために撮影が始まった本作は、15年をかけて撮影され、その間に被写体となった方々の何人かが亡くなってしまった。

 映画はタイトル画面に続いて、「水俣病関西訴訟の原告勝利」に沸く最高裁判所の玄関前という高揚した場面から始まる。2004年、国と熊本県を相手取って起こされていた、患者団体からの損害賠償請求訴訟で被告の責任が認められたのだ。続いてその判決を受けて原告団環境大臣と交渉する場面に移る。大臣が小池百合子であることに年月の流れを感じてしまった。今や東京都知事の彼女は、この頃から狸ぶりを発揮していたことがわかる。

 6時間の映画を紹介し始めたら何文字あっても足りない。まずは映画を観て、この映画に登場する個性あふれる人々との邂逅を堪能してほしい。原監督には「映画は感情を描くものだ」という信念がある。その通り、多くの患者や支援者や医者の感情がむき出しになり、観客は共感を覚えたり反感を抱いたり、ときにその喜怒哀楽に翻弄されるだろう。厳しく追及される側の役人たちに怒りを感じるか同情するか、それもまた観る者の立場によって異なるし、原監督の撮り方やインタビューの方法に異議を唱える向きもあるだろう。だが、それだけ多くの引き出しを持っていることがこの作品の最大の魅力と言える。

 恋多き女、坂本しのぶは胎児性水俣病患者で、心優しき男性に出会った瞬間に恋をして常に失恋している悲しい日々を送る。震える手で舟のペンキを塗っているのは小児性患者の生駒秀夫で、訥々とした口ぶりでしゃべるこの人の優しさと誠実さは全身からにじみ出ている。90歳を過ぎても裁判闘争を続ける不屈の闘志、川上敏行は執念の塊として屹立している。患者以外にも、水俣病の病理を解明すべく何十年も研究を続け、関西訴訟を勝利に導く学説を唱えた浴野教授と二宮教授は、ある種オタクっぽい魅力に満ちた医者・学者だ。ほかにも多くの魅力あふれる人々が登場する。と同時に、人々の描き方に製作者が気づかないジェンダーバイアスが潜んでいないだろうか。

 時に科学映画のようであり、時に恋愛映画のようでもあるこの作品の最後近く、仙女のような石牟礼道子が登場する。既に病が重いのだろう、車椅子に座り、不安定に左右に揺れる頭から絞り出すように発せられる言葉の重みにハッとさせられる。「許す」という言葉が石牟礼の口からこぼれるとき、その苦悩の意味に想いを馳せる。「怨」の旗を立てた患者たちの一揆の姿が一瞬、亡霊のように蘇る。忘れられない場面だ。

 ただ一つ残念なのは、これほど長い映画なのに労働組合が登場しないこと。原因企業であるチッソの労組は、「何もしなかったことを恥とし、水俣病と闘う」と述べた「恥宣言」で有名だが、その事実への言及がなかった。この映画が撮影された時代には既に労組は解散しており、当事者のインタビューが撮れなかったのかもしれない。あるいは、本作の本旨とは離れていたのだろうか。

 映画の公開に合わせて、『水俣曼荼羅製作ノート』という255頁の本が刊行された。映画のシナリオが完全採録されており、同書が貴重な記録となっている点も含めてお薦めしたい。原一男は同書の前書きを「こうなったら、もう、観るしかないのだ、と思ってもらいたい」という言葉で締めくくっている。そう、観るしかない。6時間半の体験は正月映画にふさわしい。じっくり腰を据えて、劇場で見てほしい。観終わったら必ず誰かと語り合いたくなるから。 (機関紙編集者クラブ「編集サービス」2021年12月号に掲載した拙稿に大幅追記)

2020
日本  Color  372分
監督:原一男
エグゼクティブプロデューサー:浪越宏治
プロデューサー:原一男、小林佐智子、長岡野亜、島野千尋
撮影:原一男
編集:秦岳志

ボストン市庁舎

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 なにしろワイズマン監督である。最近はどんどん上映時間が長くなって、「ニューヨーク公共図書館 エクスリブリス」は3時間半もあった。こんどの「ボストン市庁舎」に至っては4時間32分という増長ぶり。こんなことでいいと思ってんのか、責任者出てこーいと、漫才師なら叫ぶかもしれない長時間作である。ところが、これがまあまったく退屈しないから不思議。こんなに長い映画で、いつものワイズマン調の、ナレーションなし、BGMなし、解説字幕なし、ですよ。そんなもの見て誰が嬉しいのという映画なのに、これが面白いからすごい。

 この映画はボストン市役所がどんな仕事をしているかをつぶさに観察するドキュメンタリーである。まずは市長。そして、市役所のいろんな部署。カメラはさらに市役所外にも足を延ばして、警察署や消防署や、ごみ収集車やら、さまざまな公共部門の仕事を活写していく。

 トップである市長の仕事ぶりにも驚くばかり。我が国のありがたい歴代首相様と違って、ボストン市長は原稿を丸読みしたりしないから、漢字を読めなくて笑われたりしないし(英語だから漢字はないな)、大事な式典で原稿を読み飛ばしても気づかず国内外のマスメディアから批判されるようなこともなさそうだ。ボストン市長は一切原稿を手元に置くこともなく、市民に対して自分の言葉でひたすら語り掛ける。その姿にわたしは圧倒され、彼我の格差に唖然とした。

 この映画が何の説明もなく淡々と公務員の仕事を映しているだけなのに退屈しないのは、もちろんその仕事ぶり自体が驚異的であると同時に、働く人々の姿に興味をそそられ、なおかつ退屈しそうになる直前の絶妙のタイミングで画面が切り替わりボストンの美しい建築物が映し出されるからだ。編集の妙をわきまえている作品である。

 この映画が撮影された当時のマーティン・ウォルシュ市長はその後、バイデン政権で労働長官に就任した。ウォルシュが熱を込めて市民に対して民主主義を語り、市職員を前に公務員がなすべきことを語る姿には思わず聞きほれ見惚れてしまう。

 なにしろ5時間近い映画である。そのすべてをとても語りつくせないし、もはや全部を覚えてもいられないのが悲しいが、たとえばスーパーの隣に大麻売店を作ろうとするアジア系移民の主張に反対する地元住民相手の説明会の描写はとても新鮮な驚きだった。なぜか中国語にしか聞こえない英語をしゃべるアジア人たちが「この大麻店のおかげで雇用が拡大できる」と熱弁する様子も手に汗握るスリルがある。マサチューセッツ州では大麻が非合法ではないことにまずは驚いた(というか、アメリカでは大麻合法の州のほうが多いみたいだ)。結局、この話し合いはどう結論づいたのだろう。

 多くの場面が「話し合いの場」を映していることもこの映画の特徴だ。まさに、徹底的な話し合い、民主主義のお手本のような映画だ。しかも結論までちゃんとわからなかったりするので、どう落とし前が付けられたのか観客は「その後」を知りたくなるだろう。

 ボストンは合衆国全体と比べて黒人の人口比率が高い都市である。白人が人口の半分であり、黒人以外にもアジア系も多く、多様性がボストンの特徴でもある。多様性とはつまり、利害関係が複雑ということと等価だ。既得権益者の不正が告発されたり、治安悪化が問題になることもしばしばのようだ。映画の中で闘わされる議論の一つ一つが、どういう町を作りたいのか、どういう社会を作りたいのかが問われる場面である。

 この映画は繰り返し見て、大学や高校の授業でも使いたい素材だ。特定の部分だけを見ても大いに考えさせられる。これぞまさに労働映画。働く人々の姿が尊くまぶしい。

2020
CITY HALL
アメリカ  Color  272分
監督:フレデリック・ワイズマン
製作:フレデリック・ワイズマン、カレン・コニーチェ
撮影:ジョン・デイヴィー
編集:フレデリック・ワイズマン

ユダヤ人の私

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 ホロコーストを生き延びた104歳の老人が一人カメラに向かって淡々と自分の体験を語る。ただそれだけの映画なのに、一切退屈することがない。話の要所要所で章を区切るように、過去の国策映画やニュース映像が挿入される。それがブレイクタイムの役目を果たし、時には笑ってしまうような楽しい(!)戦意高揚アニメもあって、飽きさせない。

 語り部の老人の名はマルコ・ファインゴルト。オーストリアに生まれ育った厳格なユダヤ家庭の3番目の息子だった。彼の下には妹が一人いたので、きょうだいは4人ということになる。1913年生まれのファインゴルトが語る自分史はそのままユダヤ人の20世紀の苦難の歴史だ。第1次世界大戦に出征した父のこと、小学校ではユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した教師からユダヤ人差別を受けたこと、成人してからはイタリア人のふりをしてイタリアで仕事をして儲けたこと、1938年にドイツによってオーストリアが併合されたとき、たまたまイタリアから帰国していたために、国境封鎖の憂き目に遭ってイタリアに戻れなくなったこと。いくつかの幸運と不運が後の彼の運命を決めた。

 その後はチェコスロバキアポーランド、と追放と逮捕を繰り返し経験して刑務所間移送の末に、アウシュヴィッツ絶滅収容所への移送というお決まりのコースが待っている。収容所を転々と移送されているうちに、途中までは一緒だった次兄ともはぐれ、最終的にファインゴルトは1945年4月にブーヘンヴァルト収容所で解放された。

 彼の語る言葉は淡々と淀みなく、時に独特のユーモアを交え、きわめて理知的な印象を与える。この老人の話がまったく聞き手を離さないのは、その知的センスのゆえであることに気づく。収容所内でのエピソードですら哀切なユーモアの響きがある。そして、この収容所の中でユダヤ人は「ひと」でなくなった、という発言がずっしりとのしかかってくる。

 「たった数時間で、人間ではなくなったんだ。さっきまで名前のある人間だったのに、今では単なる数字で呼ばれるだけだ」。このセリフはどこかで聞いたことがある。そう、かつて絶滅収容所で暮らしたサバイバーの何人もが語った言葉だ。数字でしかなくなった囚人たちは、虐待の挙句に理性も感情も失ってただよろよろと歩く姿を「ムスリム」と呼ばれていたという、ジョルジュ・アガンベンホモ・サケル』の叙述を思い出すではないか。

 100歳を過ぎても忘れることができない、むしろ語り続け過ぎたために語りの型ができあがってしまったかのようなファインゴルトの言葉が、戦後76年経ってもまだわたしたちに訴えかけてくる、この消えることのない重さはなんなのだろう。彼はドイツの「被害者」だったオーストリアで生まれ育った。しかし故国が被害者の立ち位置にとどまることを許さないファインゴルトは、戦後も続くオーストリア反ユダヤ主義を痛烈に批判している。

 戦後、何十万人ものユダヤ人難民をパレスチナに送ったというファインゴルトはしかし、その後のパレスチナ問題に言及することはなかった。それはこの映画のテーマではないからだろう。過去の歴史をその後の連続性の中で語ろうとしたこの映画の試みは、今に続く反ユダヤ主義やネオナチ運動にも視線を向けている。歴史は終わっていない、たとえサバイバーが死に絶えても。ファインゴルトはこの映画の完成後まもなく死去している。

2021
A JEWISH LIFE
オーストリア   114分
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、クリスティアン・ケルマー、ローラント・シュロットホーファー
製作:クリスティアン・クレーネス、ローラント・シュロットホーファー
撮影:クリスティアン・ケルマー
編集:クリスティアン・ケルマー

 

 

これは君の闘争だ

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 2016年の軽井沢スキーツアーのバス事故で亡くなった学生が最後に読んでいた本が、小熊英二『社会を変えるには』だったという記事が「朝日新聞」(2017.1.15)に掲載されている。日本の学生はなかなか社会を変えるための行動に立ち上がらない。安保法制反対運動の時にシールズなどの団体が生まれたが、いつのまにか解散してしまった。

 だが、ブラジルでは高校生が学校占拠という手段に訴えて、法律を変えさせるという力を発揮した。この映画は複数の撮影者が記録した映像を編集して、2013年以来の高校生と大学生の闘争を見事に活写した。なんといってもポップな編集が巧みで、いかにも南米の陽気な学生らしい雰囲気がよく表れている。社会運動に立ち上がった生徒たちのほとんどが貧困層で、つまりは黒人が多い。彼らはラップを歌い、踊り、叫び、デモし、学校に侵入し、占拠する。「バス代を下げろ」「学校統廃合に反対!」が彼らの主張だった。

 この映画は、運動当事者の3人の若者が当時を振り返り、ナレーターを務めるという構成をとる。今でも若者だから、2013年は小学生だった者もいる。高校生だった自分が映っている映像を見ながら照れたり笑ったりする様子も微笑ましい。

 もともとはバス代値上げ反対運動から始まった社会運動は、たちまち多様な課題を掲げるようになった。曰く、男女平等の実現、人種差別反対、LGBTQの権利を認めよ……。そして2015年には高校の統廃合に反対する生徒たちが学校を占拠し、その動きはたちまち全国に広がった。公共政策を進めてきたはずの左派政権の腐敗や汚職を批判し、彼らはついに大統領を辞任に追い込んだ。しかしその結果が、極右政権の登場へと道を拓くことになるとはなんという皮肉だろうか。2018年の大統領選挙で当選したのは「ブラジルのトランプ」と呼ばれているボルソナロだ。

 だが、その結果をどう考えるのかを問いかけるのがこの映画のテーマであると同時に、この巨大なうねりを作った若者たちの闘争が今に続いていることを高らかに宣言することもまたこの映画の目的ではなかろうか。

 大学生たちが全国学生連盟の総会会場で拳を突き上げ、それぞれの党派の旗を掲げてシュプレヒコールを上げる熱気は映画全体を覆う。その様子は50年前の全共闘運動を髣髴とさせるものだ。しかし、日本の全共闘と違って、ここにはヘルメットとタオルの覆面姿の学生は一人もいないし、角材もない。意見の違いによる左右・中間派の対立はあるが、内ゲバがないのが救いだ。

 映画の惹句に「軍警察が放った爆弾1発で、私たち高校生の給食529人分がぶっ飛んだ」とある。学生のデモに対して放たれた弾丸一発の値段を給食費に換算する彼らのセンスが光っている。

 この映画は、ボルソナロ大統領が就任する前夜に完成した。ここに記録された学生たちは結果的に極右政権を招いてしまったのだろうか。歴史の審判はまだ早い。「これは君の闘争」なのだから。

2019
ESPERO TUA (RE)VOLTA
監督:エリザ・カパイ

恋する寄生虫

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 寄生虫が宿主の精神状態を左右して支配するという物語の設定は、R.ドーキンス利己的な遺伝子』や瀬名秀明パラサイト・イヴ』を想起させる。頭の中に寄生虫が居る男女は寄生虫に操られて恋に落ち、虫の繁殖を助けることになる――そんな奇抜な発想で書かれた原作小説を映像はどう処理するのか。原作の設定を変えつつも、文字によって描かれた心象風景を映像で巧みに表現していく映画らしい作品に仕上がった。

 主人公は佐薙(さなぎ)ひじりという女子高生と、失業中の高坂賢吾27歳。原作では二人の年齢差が強調されていたが、映画では演じた林遣都小松菜奈の実年齢が近いためか、二人が恋人になるという設定に違和感がない。この二人は、佐薙が視線恐怖症、高坂が強迫性の潔癖症であり、二人とも社会に適応できないことに苦しんでいた。そんな二人がある日偶然出会って恋に落ち……だったら普通の恋愛物語なのだが、そうではなくて二人は偶然ではなく、ある意味強制的に出会わされたのである。なぜなら、二人とも同じ寄生虫が脳内に巣喰っていて、その虫たちが自らの繁殖のために二人を恋の糸で結ぼうと企んでいるから。やがては宿主を殺してしまうというその寄生虫の治療のため、二人は引き合わされたのだった。

 映画の巻頭、高坂がバスの中でパンを食べる中年男性を見て恐怖のあまり嘔吐したり、自分の手が汚れているという脅迫観念に取りつかれる様子をコミカルとも言える演出で映像表現しているのが小説との大きな違いで、これは映像力のインパクトをいかんなく発揮している。他人の視線が本人にはどのように見えているかを表現した、佐薙の視線恐怖症に至ってはほとんどマンガのようなのだが、こういう演出が徐々にシリアスに変化していく。

 二人の恋は本物なのか虫のせいなのか、虫を駆除すればもう恋心は消えてしまうのか。恋の行方をめぐる緊迫感はクリスマスイブに向かって盛り上がる。その日に向けて、高坂はある犯罪を企んでいた。果たしてその企みは成功するのか、世界が終わればいいと願ったかつての二人は変わったのかどうか。

 生きにくさを抱えて生きている人たちへの共感をこめた視線が美しい音楽と共に観客に響いてくる。湖でのクライマックスシーンへと至る静かで落ち着いた風景にはハッとさせられた。柿本監督、これから先も楽しみ。

2021 日本  Color  110分
監督:柿本ケンサク
製作:堀内大示ほか
原案:三秋縋 『恋する寄生虫』(メディアワークス文庫KADOKAWA 刊)
脚本:山室有紀子
撮影:カテブ・ハビブ
出演:林遣都小松菜奈井浦新石橋凌