映画の上映方法が前代未聞。新型コロナウイルスによって危機を迎えている「映画の経済」を回復させるための試みとして、劇場公開と並行して、インターネット上に「仮設の映画館」をつくり、観客はどの映画館で作品を鑑賞するのかを選ぶことができるようにするという。そして、鑑賞料金(1,800円)は「本物の映画館」の興行収入と同じく、それぞれの劇場と配給会社、製作者に分配される仕組みである。全国一斉、5月2日(土)10:00-5月22日(金)21:00まで配信される。
ぜひ「仮設の映画館」で鑑賞してください!
詳しくは↓
http://www.temporary-cinema.jp/seishin0/
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前作「精神」から10年。これは想田監督にとって第9作目の「観察映画」である。ただ観察するだけ。ナレーションもテロップも音楽も入れない。解説はない。目の間にいる人たちをただ観察する。カメラを回しながらときどき質問してみる。
精神科診療所「こらーる岡山」で患者たちをとらえた「精神」は、実に驚くべき映画であった。入退院を繰り返すのではなく、地域の中で患者が生きていける仕組みを作る。それを実現させていたのが、「眠そうに患者の話を聞いている」と想田和広が当初感じた、山本昌知医師だった。
その続編である本作「精神0」は引退を決意した山本を追う。冒頭、山本が患者と向き合い、診察している様子がただじっと映し出される。とても診察しているとは思えない、坊主の説教のような語り口調だ。確かに「眠そう」でもある。しかし山本を慕う患者は多い。
そして次のシーンでは山本の引退講演会の様子が映る。満席の会場に向かって語る山本の口調はユーモアに溢れている。前作で登場していた若い女性が「泣くのはいやだから笑って先生に花束を渡します」とお礼の言葉とともに山本に花を捧げる。
診察室では、「先生がお辞めになるということですが……。僕はどうしたらいいですか」「遠くてもいいです。先生に付いていきます」「これで最後と思うと、寂しいです」と一途な表情の男性が食い下がっている。
前作「精神」での場面はモノクロで挿入される。今より10年分若い山本の姿に、歳月の流れを痛感する。十歳若いのは患者も同じこと。十五年間山本に診てもらっている中年男性はあくまで山本に診察してほしいと懇願する。他にもそういう患者は何人も登場する。「急に退職されるということになったから……」と患者たちは戸惑いを隠せない。中には山本に手紙を渡す人もいる。そこには借金の申し込みが書かれていた。その場で財布から小銭も含めて3千円を渡す山本。
なぜか街を徘徊する猫をカメラが執拗に追いかける場面がある。これは何を狙っているのだろうと不思議に思っていると、次のシーンでは山本医師の自宅が映り、妻との日常生活が垣間見える。夫婦の家にカメラを持って乗り込む想田監督は本来、画面の外にいる透明人間に違いない。だが、その想田の分も茶菓が用意され、寿司が振る舞われる。酒を勧められて「運転があるから飲めないんです(笑)」という想田に、山本は「タクシーで送るよ」とさらに強く勧める。「こんなことはめったにないんだから」と。結果、想田は酒をいただき、三人で乾杯する。ほのぼのとするシーンだ。
想田のカメラは猫だけではなく、街を歩く中学生たちをも追いかける。映画を撮っているとわかってカメラの前でふざける少年たちが可愛い。
山本医師の妻芳子が認知症の初期症状と思しき行動をとっていることに観客はすぐ気づくだろう。10年前の「精神」で見た美しく矍鑠(かくしゃく)とした知的な女性の面影は無い。
山本医師がなぜ仕事を辞めるのかこの映画の中でなにも説明されることはないし、妻の認知症について「認知」の一言を誰も言わない。けれど、八二歳で山本が現役を引退した理由は明らかだ。
患者とともに生きた山本は、夫婦で診療所を維持してきた。いま、妻とともに生きる。足腰の弱った妻をいたわり、その手をそっと握る。中学生の時から一緒だったという夫婦の終の棲家で山本が妻に向けるまなざしに、頭(こうべ)を垂れるような気持ちすらわいてくる。中高年ならきっと経験のある、そしてこれから行く道として他人事とは思えない映画だ。前作「精神」を先に見ることをお勧めする。 (本稿は機関紙編集者クラブ「編集サービス」4月号の拙稿に大幅に加筆したものです)
2020 日本 / アメリカ