吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

別離

 「彼女が消えた浜辺」の見事な脚本に感嘆したファルハディ監督、再び同じようなテーマで描いたこの作品は、前作よりも国際市場を視野に入れたのか、外国人にも分かりやすいようにとの配慮が行き届いた脚本になっている。その狙いは見事的中、国際映画賞を総なめ状態で、現在90冠以上だそうな。


 前作のほうがミステリアスでスリリングな展開だったのでわたしはあっちのほうが面白いのではと思うが、今作の脚本の緻密さは前作を凌ぐ。


 ことの発端は結婚15年目の夫婦が離婚を申し立てたことだ。いきなり離婚調停の緊迫した画面から始まり、観客はあっという間にこの一組の夫婦の危機へと引きずり込まれる。妻シミンは11歳の娘の教育のために海外に移住したいというモダンな女性。夫ナデルは認知症の父をおいて海外へは行けないと頑として譲らない。ここではモダンと伝統的な価値観とがせめぎあう。認知症の父は介護施設に入れたらいいのに、と思うのはモダンな日本人であるわたしの感覚だが、イランではそうではない。

 このように、映画を見ているうちにイランの社会事情や信仰心篤い人々の心理が徐々に理解できてくる。理解、といっても実はわたしたちの理解を超えている。なんでそんなことがタブーなの?!と絶叫したくなるぐらい不思議なことが次々と起きる。そして、イラン社会に横たわる性差別、貧富の格差、老人介護、教育格差、といった問題が次々とあぶりだされてくる。

 この映画のすごさは、何も説教臭いところがないのに、社会批判の視線が一貫して横たわっていること。そして、善良な人々ばかりが登場するにもかかわらず、事態は悪化の一途をたどるという展開、一つの小さなきっかけ(嘘)が徐々に普通の人々を苦しめていく展開が、役者の熱演とあいまってリアルに迫ってくることだ。見る者の性別や立場によって登場人物の誰にでも感情移入がたやすい。と同時に、その感情が揺れていく。ことの善悪は判断つきかねるし、映画の中には最後まで語られていない謎も残っている(お金を盗ったのは誰!?)。ひょっとしたら、台詞であえて語られなかった背景がまだ隠されているのかもしれない、と思わせるものがある。

 イラン社会と家族の問題を描きながら、これは日本にも大いに当てはまる話だと感じ入る。宗教観や文化の違いがあってもなお、ここに普遍性が横たわっているのは、アスガー・ファルハディの近代的な視点が注がれているからだろう。そして、ファルハディは物語に決着をつけない。人々の苦悩は続くし、生活のための闘いもまた続く。


 主役のレイラ・ハタミ、何度見てもイザベラ・ロッセリーニに見えてしかたがなかった。最初から最後までそれが気になって集中力に欠けるほどだった(苦笑)。

 本作は長男Yと一緒に3本立ての2本目に観た。前日までは「別離」は見ないと言い張っていたYなのに、「今日観た3本の中でこれが一番よかった」と評価をころりと変えた作品。主人公の男優がフレディ・マーキュリー(クイーンのボーカル)に似ているから見たくないとかわめいていたくせに。


<追記:ネタばれ注意>

 お金は盗られたのではなく、妻が引越し運賃の増額分に使ったのに夫が気づかなかっただけ、という指摘がTwitterアカウント‏@amako99 さんよりありました。
 

JODAEIYE NADER AZ SIMIN
123分、イラン、2011
製作・監督・脚本:アスガー・ファルハディ
出演: レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ、サレー・バヤト、サリナ・ファルハディ