本作を見る前に、「マルクス・エンゲルス」と「未来を花束にして」を見ておくとわかりやすいだろう。なんの予備知識もなく本作を見ると人間関係が混乱するので、マルクスとエンゲルスの関係や、マルクス一家の家族構成は頭に入れておくことをお勧めする。
かのカール・マルクスは左翼活動ゆえに故郷のドイツを追われ、フランス、ベルギーなど生涯のほとんどを外国で暮らすことなった。31歳のとき一家でイギリスに渡り、ロンドンが終生の地となった。そのイギリスでの極貧生活を支えたのが終生の親友フリードリッヒ・エンゲルスである。マルクス一家には6人の子がいたが、成人したのは3人の娘だけだった。この映画はその末っ子、エリノア・マルクスの半生を描く。
カール・マルクスはあまりにも有名だが、その娘エリノアもまた社会主義運動の活動家であったことはあまり知られていない。というかわたしは何も知らなかった。今回この映画を見る前にマルクス一家のことをWikipediaで調べてみた。フランス語版や英語版を駆使すると、カール・マルクスの子孫の何人もが社会主義者、政治家、芸術家であることがわかって驚いた。社会主義を家業にする一家がいたのか! おそらく存命するマルクスの子孫も何らかの知的な職業についているのではないか。
さて、映画の話に戻ろう。
カール・マルクスが亡くなった1883年、墓前で悲しみに耐えて亡父の思い出を語るエリノアの力強い姿から映画は幕を開ける。父親譲りの聡明さをもち、アジテーションの才能があったエレノアは、父の葬儀に参列していた社会主義者で劇作家のエドワード・エイヴリングに目を止める。二人は運命的な出会いをしたのだ。やがて同棲を始めた二人は婚姻制度にとらわれることなく事実婚の関係となる。エイヴリングには若いころに結婚した妻がいたが、婚姻関係が破綻しているにもかかわらず妻が離婚に同意しないため、エイヴリングは既婚者のままエリノアと一緒になったのである。男女平等と女性の解放を求める社会主義者であったエリノアにとって、婚姻制度など意にも介さないものであったのだ。
しかしというかやはりと言うべきか、二人の生活はその当初から暗い影がつきまとった。エイヴリングの浪費癖が生活破綻をもたらし、彼の女性遍歴がエリノアを苦しめた。貧困の撲滅を叫ぶ人間が贅沢な暮らしを好み、社会主義の理想を求める人間が女性を、妻をないがしろにしても平然としている。その言行不一致をエリノアはどのように感じていたのだろうか?
こういう映画を見るとわたしはいつも、「奴隷解放を叫ぶ男が家の中に奴隷を飼っていることに無自覚」(大意)という駒尺喜美の言葉を思い出す。女(妻)を踏みつけにし、犠牲にしていることにまったく無頓着な社会主義者たち、それはカール・マルクスとて例外ではない。そんな姿に絶望したのだろうか、エリノアの晩年は不幸であった。
ここに描かれた女性の姿は150年前の歴史物語ではすまない。いまに続く、まさに今こそ現代人に響くのではないか。エリノアの闘い、エリノアの苦悩、エリノアが訴えた自由で平等な社会の実現という理想は現代にもそのまま通じる。それほど今の世界は資本家の搾取が続き、日本では男女平等が遅れている。
この映画にとって音楽は役者の一人といえるほど大きな存在である。ショパンやリストのクラシック曲も現代風にアレンジされて流れてくるし、時代劇の演出としては斬新かつ現代的なアレンジを見せている。最後はエリノアがパンクロックのビートに乗って踊りまくるクライマックスシーンも用意されている。驚きの連続だ。
美術もみどころの一つ。貧困にあえいでいたというマルクス一家の乱雑な書斎さえも重厚な雰囲気が漂う、プロダクションデザインにはうっとり。
エリノアが語った社会主義の理想は単なる夢物語だったのだろうか、それとも? 「前へ!」と叫んだエリアノの遺志を継ぎたいと思うが、さりとてもはや社会主義は理想郷ではないと知ってしまった21世紀のわたしたちは、どこへ向かえばいいのだろう。それでもやっぱり「前へ!」と言う言葉をかみしめて。(機関紙編集者クラブ「編集サービス」に掲載したものに加筆)
2020
MISS MARX
イタリア / ベルギー Color 107分
監督:スザンナ・ニッキャレッリ
脚本:スザンナ・ニッキャレッリ音楽:ガット・チリエージャ・コントロ・イル・グランデ・フレッド、ダウンタウン・ボーイズ
出演:ロモーラ・ガライ、パトリック・ケネディ、ジョン・ゴードン・シンクレア、フェリシティ・モンタギュー