吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ファーザー

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 個人的にはこれ以上ないぐらいに身につまされた作品だ。認知症の人間の感覚をこんなふうに描けるとは、驚く以外にはない。あまりにも素晴らしい脚本に感嘆して、映画を見ている途中で「これはすごい、この脚本はきっとアカデミー賞を獲っただろう」と確信していた。で、やっぱり。というか、アカデミー賞の脚色賞を獲ったことを知っていたから見に行ったはずなのに、そのことを忘れているわたしこそ認知症だな。

 アンソニー・ホプキンスの名演は今さら言うまでもなく、認知症になった本人の動揺や不安や猜疑心を余すところなく表現していて、可哀そうすぎて涙が出そうだ。身近に認知症の人がいる観客なら、あまりのリアリティに胸が痛むだろう。認知症は単なる記憶力の低下とは異なり、世界の認識に変化と混乱が起きるのだ。認知症とはよく名付けたもので、この病気の特徴をよく表している。

 この作品を見れば、認知症本人の苦悩がとてもよく理解できるはずだ。まるでホラー映画の主人公になったような気分に違いない。ひょっとしたら周りの人間が寄ってたかって自分を嵌めようとしているのではないか、という疑いすら持っても不思議ではない。ホプキンスとオリビア・コールマンという主演二人の演技が素晴らしすぎて、わたしも一緒になって泣いていた。アンソニー・ホプキンス自身も自分の亡父を思い出しながら演じていたという。あまりにも父を思い出さされて、演技を中断せざるを得なくなるほどだったとか。

 物語の基本構造は、年老いて一人暮らしをしている父親が介護人と揉めて一人暮らしを続けられなくなる、というところから始まり、認知症の症状が悪化していく父親を一人娘のアンがしばらく引き取って面倒を見ることになるが、やがて疲弊しきって結局は父を施設に入れることになる、というもの。ところがこの基本のあらすじがしばしば混乱する。父であるアンソニー・ホプキンスの視点で描かれていくため、アンが誰なのか、その夫が誰なのかも混乱の極みを深めていく。同じ物語が何度も繰り返され、その都度何が本当なのか、観客にもわからなくなる。とても悲しいホラー映画と言ってもいいだろう。

 わたしはこの映画を見ながら、何度も母を思い出した。母が肺炎で入院した時に病室で「ここどこ? あんたのマンション?」と尋ねられたこと、「え?病院?誰が入院してるの?!」と驚かれたこと、母が毎晩病院を徘徊するため、わたしは何日か泊まり込んで母を見張っていたこと…。父母共に体力が衰え、二人そろって失禁・便漏れを起こし始めて、その後始末を泣きながらしたこと…。

 既に父が亡くなって2年半以上が過ぎた。母は3年前から施設に入っている。もう両親の介護をする必要もなくなってほっとしているのが正直なところだ。一番大変な介護は弟夫婦が担当してくれていたので、わたしは助っ人程度のことしかできていなかったが、それでもあのつらい日々は忘れられない。それは精神的なしんどさから来るものだった。親が衰えていき、排泄もままならなくなる、赤ん坊になっていく、そんな姿は子どもとしては切なくつらい。

 この映画では排泄の問題が描かれていなかっただけでもまだ「きれい」な話なのだが、実はその問題が示唆されている場面がある。それはドアだ。ロンドンの高級フラットが何度も写り、そこではいくつものドアが画面に映し出される。ドアは別の世界につながっており、ドアの存在がまた主人公の認知症に拍車をかけていく。このドアはどこへ通じているのだろう? 誰の家のドアなのか? おそらく父親はトイレがどこにあるのかもわからなくなっていくのだろう。ドア以外にも窓を効果的に使っている点もこの映画の優れた点と言えよう。

 これからますます増えていく認知症の人々、その名簿にわたし自身の名前が加わるのはそれほど遠い未来ではないだろう。願わくば、混乱を静かに受け止めていけますように。

2020
THE FATHER
イギリス / フランス Color 97分
監督:フロリアン・ゼレール
製作:フィリップ・カルカソンヌほか
原作戯曲フロリアン・ゼレール
脚本:クリストファー・ハンプトン、フロリアン・ゼレール
撮影:ベン・スミサード
音楽:ルドヴィコ・エイナウディ
出演:アンソニー・ホプキンスオリヴィア・コールマン、マーク・ゲイティス、ルーファス・シーウェルイモージェン・プーツオリヴィア・ウィリアムズ