ユダヤ人の私
ホロコーストを生き延びた104歳の老人が一人カメラに向かって淡々と自分の体験を語る。ただそれだけの映画なのに、一切退屈することがない。話の要所要所で章を区切るように、過去の国策映画やニュース映像が挿入される。それがブレイクタイムの役目を果たし、時には笑ってしまうような楽しい(!)戦意高揚アニメもあって、飽きさせない。
語り部の老人の名はマルコ・ファインゴルト。オーストリアに生まれ育った厳格なユダヤ家庭の3番目の息子だった。彼の下には妹が一人いたので、きょうだいは4人ということになる。1913年生まれのファインゴルトが語る自分史はそのままユダヤ人の20世紀の苦難の歴史だ。第1次世界大戦に出征した父のこと、小学校ではユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した教師からユダヤ人差別を受けたこと、成人してからはイタリア人のふりをしてイタリアで仕事をして儲けたこと、1938年にドイツによってオーストリアが併合されたとき、たまたまイタリアから帰国していたために、国境封鎖の憂き目に遭ってイタリアに戻れなくなったこと。いくつかの幸運と不運が後の彼の運命を決めた。
その後はチェコスロバキア、ポーランド、と追放と逮捕を繰り返し経験して刑務所間移送の末に、アウシュヴィッツ絶滅収容所への移送というお決まりのコースが待っている。収容所を転々と移送されているうちに、途中までは一緒だった次兄ともはぐれ、最終的にファインゴルトは1945年4月にブーヘンヴァルト収容所で解放された。
彼の語る言葉は淡々と淀みなく、時に独特のユーモアを交え、きわめて理知的な印象を与える。この老人の話がまったく聞き手を離さないのは、その知的センスのゆえであることに気づく。収容所内でのエピソードですら哀切なユーモアの響きがある。そして、この収容所の中でユダヤ人は「ひと」でなくなった、という発言がずっしりとのしかかってくる。
「たった数時間で、人間ではなくなったんだ。さっきまで名前のある人間だったのに、今では単なる数字で呼ばれるだけだ」。このセリフはどこかで聞いたことがある。そう、かつて絶滅収容所で暮らしたサバイバーの何人もが語った言葉だ。数字でしかなくなった囚人たちは、虐待の挙句に理性も感情も失ってただよろよろと歩く姿を「ムスリム」と呼ばれていたという、ジョルジュ・アガンベン『ホモ・サケル』の叙述を思い出すではないか。
100歳を過ぎても忘れることができない、むしろ語り続け過ぎたために語りの型ができあがってしまったかのようなファインゴルトの言葉が、戦後76年経ってもまだわたしたちに訴えかけてくる、この消えることのない重さはなんなのだろう。彼はドイツの「被害者」だったオーストリアで生まれ育った。しかし故国が被害者の立ち位置にとどまることを許さないファインゴルトは、戦後も続くオーストリアの反ユダヤ主義を痛烈に批判している。
戦後、何十万人ものユダヤ人難民をパレスチナに送ったというファインゴルトはしかし、その後のパレスチナ問題に言及することはなかった。それはこの映画のテーマではないからだろう。過去の歴史をその後の連続性の中で語ろうとしたこの映画の試みは、今に続く反ユダヤ主義やネオナチ運動にも視線を向けている。歴史は終わっていない、たとえサバイバーが死に絶えても。ファインゴルトはこの映画の完成後まもなく死去している。
2021
A JEWISH LIFE
オーストリア 114分
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、クリスティアン・ケルマー、ローラント・シュロットホーファー
製作:クリスティアン・クレーネス、ローラント・シュロットホーファー
撮影:クリスティアン・ケルマー
編集:クリスティアン・ケルマー