吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。

わたしは、ダニエル・ブレイク

f:id:ginyu:20180408020141p:plain簡潔で力強く、無駄なところがどこにもない、さすがにカンヌでパルムドールを獲っただけのことはある作品。地味すぎるのが難点か。
 一時は引退を表明したケン・ローチがどうしても、とメガホンを取ったという。宮崎駿みたいですな。 
 かつては揺り籠から墓場までと言われた福祉国家イギリスも、サッチャー政権以来、すっかりその面影はなく、公務員はひたすら援護を打ち切り機械的に杓子定規に受援者をシャットダウンすることを任務と心得る。そんな状況が端的にわかる巻頭の場面では、単調で機械的な応答のセリフだけが流れてくる。「誰の介助もなしに50メートル以上歩けますか」「ああ。申請書に書いたとおりだ」「あなたは帽子が被れるぐらいまで手を上げられますか」「手は動かせるよ、悪いのは心臓だ」「電話のボタンは押せますか」「ああ。指じゃなくて心臓が悪いって言ってるだろう?」「簡単なことを人に伝えらえれないことがありますか?」「ああ、心臓が悪いと言ってるのに伝わらない」
 ほとんど漫才のようだが、おそらくこの場面は実際にこのようなやりとりが役所の窓口で交わされているのだろう。この導入部のつかみがさすがに手練れの監督の演出だ。決して珍しい演出ではないが、観客はあっという間にこの物語世界の理不尽に気づかされる。そして画面に現れるのはスキンヘッドのダニエル・ブレイク、59歳の大工だ。妻に先立たれ、自身は心臓病で働けなくなってしまった。勤労意欲はあるのだが、仕事をしてはならないのだから、いずれ蓄えは底をつくだろう。彼は公的援助を求めて役所にやってきたのだ。
 そのダニエル・ブレイクが、同じ役所の窓口で「どうしてだめなの!」と役人相手に叫ぶ若い母親と知り合いになった。ケイティという名の彼女には父親の違う幼子が二人いて、ロンドンのホームレス用宿舎を出て田舎町に流れてきたのだった。親切なダニエルはケイティ一家の面倒をあれこれと見るようになる。
 ダニエルの住む集合住宅の隣には中国からの不正輸入で稼ぐ、アフリカ系の若者が住んでいる。ダニエルに迷惑をかけながらもそれなりに「商売」に励んでいる。底辺に住む人たちはそれぞれの知恵と工夫で生きていく。だが、ダニエル・ブレイクが役所から言われたこと、「求職活動をすること」と、医者から「仕事をしてはいけない」と言われたことは両立しない。両立しないのに、杓子定規な法令解釈により、ダニエルは意に沿わない求職活動を続けなければならない。彼のイライラや不満がつぶさに描かれていく。 
 腕に誇りのあるダニエルと、貧しい母子家庭のケイティ一家との交流がほほえましく、またどこか危なげだ。彼らの関係はどうなるのだろう。ダニエルを心配するケイティの娘の言葉がいじらしい。「助けてくれたから、今度はわたしたちが助けたいの」
 ケン・ローチの思想の根底にある、共助・扶助の原則を、子どもだって理解しているのだ。貧しい人々は怠惰でもなければ、福祉にぶら下がろうとするだけでもない。自尊心を持ち、今日を懸命に生きている。 

 ダニエルが残した言葉を採録してこの感想文を結ぶ。

「わたしは依頼人でも顧客でもユーザーでもない。怠け者でもたかり屋でも物乞いでも泥棒でもない。国民保険番号でもエラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思ってる。地位の高い者には媚びないが隣人には手を貸す。施しは要らない。わたしはダニエル・ブレイク。人間だ。犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度というものを。私はダニエル・ブレイク。一人の市民だ。それ以上でも以下でもない」

I, DANIEL BLAKE
100分、イギリス/フランス/ベルギー、2016
監督:ケン・ローチ、製作:レベッカ・オブライエン、製作総指揮:パスカル・コシュトゥーほか、脚本:ポール・ラヴァーティ、音楽:ジョージ・フェントン
出演:デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアーズ、ディラン・フィリップ・マキアナン、ブリアナ・シャン