吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

懐かしの庭

 映画評に続けて原作の紹介を。



 上巻ではカルメでの二人の隠遁生活や、ヒロイン・ユンヒの父のこと、主人公ヒョヌの刑務所での生活などが細かく綴られる。映画よりも遙かに詳しく細かな描写には胸に迫るものがある。


 刑務所の中では鳩や猫との「交流」が囚人の慰めになる。ほんとうにささやかなことが彼らの心をどれだけ癒すか、その描写がリアルに描かれている。

 ユンヒが妹に語る言葉(上巻p.329)

菩薩は自分が菩薩行をしているということすら忘れさった存在なんだって。悪と闘っていると思っている人も相手と似ていて、欲望を根っこから切り捨てることはできないのね。それが人間の限界なんですって。でも、それを追い求める若者って、美しいんじゃない?

..

下巻、p127。ウンギョルはヒョヌが獄中にある間にユンヒが生んだ娘。

 私がウンギョルの存在を知っていたなら、心が疼いてときど苦しくなったとしても、どんなに満たされていただろうか。心が波のように揺れ動くのを恐れる必要はない。もともと生きることとはそんなものではなかったか。

 愛のない平穏よりも、愛のある苦しみのほうを選ぶ。わたしならそうだろう。

 
 獄に閉じこめられているヒョヌが、一泊2日の外界見学を許される。そのとき、彼は刑務官付きで街を歩くのだが、そのとき、彼は先輩政治犯のことをこのように言う。

 そうだ、どんなに最近の記憶だといっても、閉じこめられた者が経験したことはおぼろげな夢と同じなのだ。記憶というのは、やはり彼が自由の身に戻らなければ、完全なものではないのではないか。

 小説は上巻よりも下巻が面白い。特にユンヒがドイツに留学中のエピソードの数々がたいへん興味深く、ここを映画がごっそり削ってしまったのは残念だ。ベルリンの壁が崩壊した、まさにそのときに西ベルリンにいたユンヒは、ドイツでできた新しい恋人とともにその夜を過ごす。その興奮と、その後のドイツの様子が描かれ、また、アルコール依存症の老婦人との交流が、なんともいえない「過去の悲しみ」とのゆったりとした遭遇、という味わいを小説に与えていて、心にずっしりくる。


 なぜドイツ時代を描く必要があったのか。それは、ユンヒの父とヒョヌとが共に社会主義者であり、革命を夢見て夢破れた人間だから。彼らにとって社会主義がご破算となったことがいかに大きな衝撃であったか、そのことを描かなくては韓国現代史を描くことができない。しかし、ベルリンの壁の崩壊が社会主義者であるヒョヌの体験としてではなく、決して活動家ではなかったユンヒの体験を通して語られることにこの小説の抑制があるのだろう。


 ヒョヌの獄中の辛い生活が社会主義リアリズムのように描かれていくのとは対照的に、ユンヒのドイツ生活や新しい恋はまるで夢の中の美しい物語のようだ。そして、彼女にからむ、もう一人の重要人物。ユンヒの大学の後輩であり活動家の宋永泰(ソン・ヨンテ)。道化のような彼の存在がまた、一途な社会主義者の悲しい末路を描いてずしんと来る。


 ローザ・ルクセンブルグ記念碑、ベルリンの壁、シベリア横断鉄道の車窓の風景を読みながら、いつか旅したいと胸が熱くなる。広大なシベリアの原野を見て驚きの声を上げたい。そののち黙ってその風景に圧倒されたい。


 映画も素晴らしかったけれど、原作もまたしみじみとそして淡々とした筆致の味わい深い物語だ。『客人』のほうが名作の味わいがあったような気がするが、黄晢暎(ファン・ソギョン)は近いうちにノーベル賞をとるかもしれない。

  
 映画を観てから読むことをお勧めします。


<書誌情報>
懐かしの庭 / 黄晢暎[著] ; 青柳優子訳 ; 上巻, 下巻. -- 岩波書店, 2002