吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ある男

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 事故で突然亡くなった夫の氏名や経歴がまったく偽造されていたことを知った妻が弁護士に調査を依頼し、夫の過去を探っていくという物語。こういう粗筋なら、「嘘を愛する女」(2018年)など最近の日本映画も思い出す。

 して、謎の夫の背景を調査していく城戸弁護士が妻夫木聡。彼は在日韓国人3世で既に日本国籍を取得しているという。ここが本作のキーワードの一つ。多くの在日が過去を隠し通名を名乗り、さらに日本国籍を取得して戸籍も日本名となってルーツを隠したり忘れつつある今、アイデンティティを変えて生きている人間の存在をテーマに描いた原作小説がかなり重厚なもなのだろうと想像できる。大変残念なことにわたしは原作を読んでいないため、このテーマに平野啓一郎が何を込めたのかは映画から受け取るしかない。

 物語は主人公の城戸弁護士が登場するまでが結構長い。巻頭、林業労働者のとある男が立ち寄った文具店でスケッチブックを買う、それをきっかけに店主の女性と結婚し、やがて子どももできて幸せに暮らしていたのに、突然の事故で亡くなってしまい、親族に連絡をとったところが別人であることが発覚するというミステリー。ここまでの展開の演出が巧みだ。店で突然停電する場面や男女が恐る恐る距離を縮めていくシーンなど、緊張感があって、将来の二人を暗示しているようだ。

 やっと場面に登場する城戸弁護士は、その登場の瞬間からかっこいい。本作では全編にわたってカメラが非常にいい仕事をしているので撮影監督は誰かと思ったら、近藤龍人だった。さすがだ。

 城戸は金持ちの日本人お嬢様と結婚したようだが、妻の母、つまり義母は「あきらさんは在日三世でしょ、三世ならもう日本人よ」と平然と言ってのける。義父に至ってはネトウヨ顔負けの民族差別言辞を吐く。その言葉を静かに微笑んで聞いている城戸の心のうちはわからない。

 城戸が何度も「イケメンの弁護士さん」と揶揄されるのだが、実際この映画の妻夫木聡ほど美しい彼を見たことがないような気がする。凛として知性があり、物静かで内に小さな怒りを秘めている。ごくたまにそれが爆発してしまうのだが、彼の心の奥底にある怒りや葛藤の根源が何なのか、想像はできるが、しかししかし。この複雑な人物を妻夫木が見事に演じた。これでまた何か賞を獲るのだろうな。そして、囚人を演じた柄本明の怪演も印象に残る。柄本の不自然な関西弁もわざとやっているのか、気持ちの悪さを残す。

 アイデンティティを変えながら生きる、あるいは偽って生きる、あるいは秘密を抱えて生きる、物語はそんな人々の群像劇とも言える様相を見せる。幕引きもまた謎に包まれたままだ。もう一つの物語がここから始まる予感が。

 原作を読みたくなった。時間がほしい!!

ある男
2021
日本  Color  121分
監督:石川慶
製作:高橋敏弘ほか
原作:平野啓一郎
脚本:向井康介
撮影:近藤龍人
音楽:Cicada
出演:妻夫木聡安藤サクラ窪田正孝眞島秀和、でんでん、仲野太賀、真木よう子柄本明