お帰りといっても寅さんが実際に帰ってくるわけではない。寅さんは長い間家族の前に姿を見せていないという設定なのだ。物語の主人公は車寅次郎の甥、諏訪満男だ。
寅さんが最後に姿を見せてから22年、実際には24年が経った。サラリーマンだった満男は作家に転身してそれなりに成功している。初恋の相手だった泉とは結局うまくいかなかったと見えて、別の女性と結婚して一女をもうけた。しかしその妻も亡くなって7年になる。という現状を説明する冒頭のシーンが手際よくさばかれる。
今回の第50作は2019年現在の寅さん一家が描かれ、寅次郎は満男たちの回想の中でその姿を現す。その回想シーンがデジタル化によって見事に蘇った美しい映像と音声で驚くべき鮮明さでスクリーンに広がる。若かりし頃のさくらの皺ひとつない顔、初々しい満男、滑舌よくまくし立てる寅次郎の口上、すべてが感動的だ。
シリーズの第1作ではすでに後の作品すべての原型ができあがっていて、寅次郎は美女を見ると一瞬で恋に落ちるという特技を発揮し、相手がその気になっても土壇場で逃げ腰になる。ご都合主義も極まれりという偶然が次々と重なって、テキヤ寅次郎の行く先々で満男たちに遭遇したりマドンナに再会する。第1話で誕生した甥の満男は寅次郎に似ていると言われて、その後のシリーズの展開を暗示していた。だから第50作の満男が優柔不断だったり、ものすごい偶然で泉に再会するなんていうのは当然と言えば当然なのだ。
このシリーズを全作通してみれば、1969年からの日本の社会史・技術史が見える。渡船料金や食堂のメニューや値札など、山田洋次はそのときどきの生活を細かく映像に刻み付けていく。寅さんの妹さくらの夫が勤める小さな印刷工場の現場が何度もカメラに撮られるが、その工場では活版印刷から電算写植に変わっていく時代の変化が活写され、サラリーマンになった満男のデスクの上にはシャープのワープロ「書院」が置かれていたのが、やがてはノートパソコンに取って代わられる。携帯電話が普及し始めたころ、受話器にコードがつながっていないことに戸惑う寅次郎の姿もさりげなく描かれていた。
そういえば、「男はつらいよ」などというタイトルがそもそもジェンダーバイアスの権化だし、今の時代にはふさわしくない。シリーズを通してずっと寅次郎は「男はなぁ」「男ってもんはなぁ」と、「男らしさ」に呪縛されていた。今なら寅さんも肩肘を張らずに生きられたかもしれない。いや、今でもきっと寅さんは男らしさにこだわって「生きにくい時代になったもんだぜ、まったく」とぼやいているのではないか。世の中が変わっても寅さんは変わらない。
日本の労働映画100選にも選ばれた「男はつらいよ」、若者にはぜひシリーズを通して働く人々の姿や世相の移ろいを知ってほしい。頑固で意地っ張りな寅さんのやさしさに触れてほしい。
山田洋次はどこにもない架空の理想家族を描いてきたのではないか。山田監督が描く庶民の生活は「こうであってほしい」という願いが込められた、少しずつリアルな、大きくは非現実的な家族の姿であった。その少しずつのリアリティが多くの人々の心のどこかに必ず響くものを持っている、そんな普遍性を宿しているのだ。
この50作目もまた、切なく懐かしく優しく楽しい作品になっている。よくぞ古い作品をつないでこのような感動作を作り上げたものだ。「ニューシネマパラダイス」のラストシーンを思い出させる、編集の妙だろう。桑田佳祐による主題歌の熱唱も見どころ。老若男女すべての人に見てほしい。