吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

コッポラの胡蝶の夢

 これはおそらく失敗作だと思う。あまりにもいろんな種を蒔きすぎて、それらが好き勝手にぼうぼうと生えるに任せ、収穫を放棄してしまったからだ。そこには整序された美しい庭園はなく、イングリッシュガーデンよろしく思考の種が散らばる草原があるのみ。


 とはいえ、最後にとても切なく悲しい思いに胸が締め付けられたのはなぜだろう? これほどわけがわからない作品なのになぜ深い悲しみをわたしにもたらすのだろう。


 1938年、ルーマニア。ドミニク・マテイ教授は雷に打たれる。38年と言えばフッサールが死んだ年だ。主人公マテイ教授は言語学者であり、言語の始原を突き止めるのが彼の終生の仕事である。だが彼はたった一冊の本をも完成できずに老境に達した。1938年、近代言語学の始祖ソシュールは既に世になく、ルーマニアはドイツに侵略されようとしていた。


 ナチスが世界大戦の引き金を引くそのときを背景としてこの作品が選ばれたことの理由は何だろうか。輪廻転生を描くならば激動の時代が相応しいということか。マテイ教授は研究のためには若き日の愛を犠牲にした。しかし彼は終生愛し続けた女性のために最後は自らの研究を諦める。彼は生涯の野望、学者としての達成感よりも愛する人の命を選んだのだ。それは愛する女性との別れをも意味した。この悲しみに打ちのめされてもなおマテイは生き続ける。彼は人生を二度生きた。二度生きることにより、一度目には知ることのなかった愛の深さを知り、人類の未来の暗き絶望をも知ることになる。


 ストーリーには何も難しいところはなく、どんな物語だったのかと尋ねられれば答えることは可能だ。そういう点ではリンチ監督の「インランド・エンパイア」のような独りよがりはなく、演出は落ち着いており、インドでのロケなど美しい風景もふんだんに取り入れられているし、ブカレストの町並みの美しさは息をのむほどだ。しかし、いったい何がいいたいのかよくわからない映画、という点ではリンチもコッポラもどっこいどっこいかも?


 「胡蝶の夢」とタイトルがついているが、わたしは「邯鄲の夢」を思い出していた。わからない映画、と言いながらもこの映画から受け取ったメッセージはいくつもあった。作品を見ながらいくつものことが頭をよぎり、次々と想像の翼が羽ばたく。特に時間については様々なことを考えさせられた。輪廻転生とはすなわち過去の記憶が時空を隔てて現れること、と考えれば、ここには記憶と時間に関するわたしたちの通常の把握とは違う流れがある。ラウラの生まれ変わりでもあるヴェロニカがなぜドミニクの求める「始原の言語」復活のために我が身を削るのだろうか? 時間と記憶に関する欲望、つまり、謎を解くために時間をわがものとし、時空を遡るあるいは未来へと先走ることによって人は「罰」を受けるのだ。

 
 わたしたちは「真実」を知りたいと思う。探求心をつきつめ、研究に没頭し、「生」の謎に迫りたいと思う。しかしそのことじたいが一つの欲望/野望であり、その欲望を満たすためには何かが(愛が)犠牲にならねばならない。ドミニクは学者としての欲望よりも愛を選んだ。そのために愛を失うことにもなった。


 ドミニクには分身が存在した。その分身は彼の知性であり同時に欲望の血肉化したものである。分身を自ら殺したとき、彼は欲望に打ち勝った。いや、果たしてそうなのだろうか? 彼の人生は結局のところ、満たされなかった愛と欲望を抱いたままに100年が過ぎた。


 もう一度見ないとよくわからない映画だ。もう一度見てもわからないかも。(レンタルDVD)

YOUTH WITHOUT YOUTH
124分、アメリカ/ドイツ/イタリア/フランス/ルーマニア、2007
製作・監督・脚本: フランシス・F・コッポラ、原作: ミルチャ・エリアーデ『若さなき若さ』、音楽: オスバルド・ゴリホフ
出演: ティム・ロスアレクサンドラ・マリア・ララブルーノ・ガンツ、アンドレ・M・ヘンニック、マーセル・ユーレス