『トラウマ・歴史・物語』の第2章「文学と記憶の上演」はディラスの脚本によるアラン・レネ監督の映画「ヒロシマ私の恋人」(「二十四時間の情事」)についての分析だ。
ここからいくつか引用を。主演の岡田英次はフランス語をまったく理解しないという。彼は完璧に音だけでフランス語の科白を覚えた。しかも、撮影のときに同時録音した音が雑音のため使えなくなり、音をそっくりアフレコする必要が生まれたのだという。岡田はこの難業もやってのけた。彼は自分にとって意味不明のフランス語をもう一度最初から流暢にしゃべり直したのだ。
[岡田英次は]自分がしゃべるテクストのセリフを暗記したのではなく、彼にとっては文法的には何の意味もなさない音声としてそのセリフを覚えて暗唱した。まったく驚くべきことである。オカダは、映画の中に差異を導入したが、それは、彼が自分の役を通して演じたわけではなかった。つまり、この物語にとって、フランス語を話す日本人男性は、物まねとか鏡像とかの関係の中で、その役を演じた俳優を表象しているのではないからである。映画の中の日本人男性は、母国語を一時外国語に置き換えるためにその外国語を学んだが、一方、その日本人男性を演じた俳優は、音として覚えた言語の音声を声に出したのである。音声を声として発話すると、彼自身の存在が空になってしまうかというと、実はその反対である。流暢にフランス語をしゃべる物語の中の人物は、指示対象となる日本人像を一部喪失したが、音声を出すことで、オカダと役柄の人物とは、はっきり区別されたのである。オカダが音声を丸暗記したと言うことを、喪失や忘却として解釈するべきではない。つまりオカダは自己内の差異を表象したというより、言葉としてその差異を声に出して演じたのであり、それは翻訳不可能なものである。あの役のために彼がしたことは、自分の声の代替不可能性という具体性を演じたことである。こうしてオカダは自分の話している言語の意味を所有したり、支配したりするのではなく、その声の再を比類なきかたちで伝達する話し方を映画に導入した。そして、このことこそが、『ヒロシマ私の恋人』という映画が語ろうとする、人類の深淵にひそむ哲学であり真実でもあるものとつながっている。(p73-74)
トラウマ的悲劇は理解し合えない。女が「ヒロシマを見た」と言う。男は「君は何も見なかった」と答える。二人は理解し合えないのではないか。しかし、映画はその「理解できない」ところから、互いへと「聞き合う」道を拓いているように思う。カルースも述べている。
フランス人女性と日本人男性の対話の中で鳴り響いていたもの、そして、文化や体験の間にある溝を越えて二人を通じ合わせていたもの、それは、二人が直接には理解しあえないという認識から来たものである。映画全体を通じて二人を結びつけることを可能とした者は、いまだ完全にはつかみとられていない体験、いまだ語りつくされていない
物語の、謎に満ちた言語である。相手のことについて知っているというだけでは、二人が情熱的な出会いの中で語り合い、聞き取りあうことはなかったであろう。自分たちのトラウマ的過去について十分に知らないという基盤に立つとき、二人は語り合い、聴き取りあうことができたのだ。(p81)
<書誌情報>
トラウマ・歴史・物語 : 持ち主なき出来事 / キャシー・カルース [著] ; 下河辺美知子訳. みすず書房, 2005