吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

アンモナイトの目覚め

https://eiga.k-img.com/images/movie/93291/photo/05e366fe4d7d69bb/640.jpg?1613722439

 実在の、在野の古生物学者であったメアリー・アニングと、彼女の恋人となる若き人妻とのひと時の秘めた愛情物語。メアリーは実在の人物だが、彼女の恋愛についてはフィクションである。

 19世紀半ばのイギリスでは女の権利などどこにも存在しない。メアリーは海岸で化石を掘り出しては自宅を兼ねる土産物屋で売って細々と生計を立てていた。すでに中年の域に達していたが、結婚せずに老母と二人で暮らしている。彼女は11歳の時にイクチオサウルスの化石を発見し、その後も次々と恐竜や翼竜の化石を発見しただけではなく、コツコツと研究を進めていた天才的な古生物学者だったのだ。しかし実態は貧困にあえぎ、社会的名声も学位も認められず、不遇のまま亡くなっている。メアリーが発見した化石が大英帝国博物館に収蔵されるが、彼女の名前が書かれた標本タグの上には別人の男性の名前がかぶせられる。そんな時代だ。

 画面はひたすら暗い。海は暗く、天気は悪く、メアリーは不機嫌な表情を崩さず、そこにさらに不機嫌で無口な上流階級の若い女性シャーロットが夫に連れられてやってくる。「病後の妻をしばらく預かってほしい」という夫からの高額な報酬に釣られて、メアリーはしぶしぶシャーロットを預かることにする。不機嫌な二人のつっけんどんな関係がしかし、徐々に変化していくさまが心地良い。静かに展開する、階級の違いを超える女たちの交感。夫からは愛と言う名の抑圧を受けて心に変調をきたしていたシャーロットが、メアリーを知ることによって解放されていく。メアリーもまた長い間押さえつけていた欲望を解き放っていく。まさに土に埋まっていた化石のアンモナイトが目覚めたのだ。しかし当然にも二人の関係は続かない。夫がシャーロットを迎えに来ればそれで終わるのだ。

 女性に選挙権もなかった時代の制度的な抑圧だけではなく、愛こそが人を束縛するものなのだということを強烈に印象付けるラストだった。

 愛するがゆえに相手を抑圧する、相手のためを思ってなすことが実は自分のひとりよがりな欲望であることなど、いくらでもあるのだ。社会的な差別や抑圧の構造がそこに底流していようがいまいが、愛とは本質的にそのようなものであるだろう。だからこそやっかいで、パワハラとかモラルハラスメントと言われることがしばしば「愛」という名の下に行われることを忘れてはならないだろう。

 ところでこれはミュージアム映画。巻頭の場面で大英帝国博物館が登場し、ラストシーンもそこで終わる。

 主演女優二人の熱演はいうまでもなく、濃厚なベッドシーンを体当たりで演じているところも含めて、素晴らしい。(レンタルDVD)

2020
AMMONITE
イギリス / オーストラリア / アメリカ  Color  118分
監督:フランシス・リー
製作:イアン・カニングほか
脚本:フランシス・リー
撮影:ステファーヌ・フォンテーヌ
音楽:ダスティン・オハロラン、フォルカー・バーテルマ
出演:ケイト・ウィンスレット メアリー・アニング
シアーシャ・ローナン シャーロット・マーチソン
ジェマ・ジョーンズ モリー・アニング
ジェームズ・マッカードル ロデリック・マーチソン
アレック・セカレアヌ ドクター・リーバーソン
フィオナ・ショウ エリザベス・フィルポット

 

ボストン市庁舎

https://eiga.k-img.com/images/movie/94410/photo/94f7003476538f79/640.jpg?1631841227

 なにしろワイズマン監督である。最近はどんどん上映時間が長くなって、「ニューヨーク公共図書館 エクスリブリス」は3時間半もあった。こんどの「ボストン市庁舎」に至っては4時間32分という増長ぶり。こんなことでいいと思ってんのか、責任者出てこーいと、漫才師なら叫ぶかもしれない長時間作である。ところが、これがまあまったく退屈しないから不思議。こんなに長い映画で、いつものワイズマン調の、ナレーションなし、BGMなし、解説字幕なし、ですよ。そんなもの見て誰が嬉しいのという映画なのに、これが面白いからすごい。

 この映画はボストン市役所がどんな仕事をしているかをつぶさに観察するドキュメンタリーである。まずは市長。そして、市役所のいろんな部署。カメラはさらに市役所外にも足を延ばして、警察署や消防署や、ごみ収集車やら、さまざまな公共部門の仕事を活写していく。

 トップである市長の仕事ぶりにも驚くばかり。我が国のありがたい歴代首相様と違って、ボストン市長は原稿を丸読みしたりしないから、漢字を読めなくて笑われたりしないし(英語だから漢字はないな)、大事な式典で原稿を読み飛ばしても気づかず国内外のマスメディアから批判されるようなこともなさそうだ。ボストン市長は一切原稿を手元に置くこともなく、市民に対して自分の言葉でひたすら語り掛ける。その姿にわたしは圧倒され、彼我の格差に唖然とした。

 この映画が何の説明もなく淡々と公務員の仕事を映しているだけなのに退屈しないのは、もちろんその仕事ぶり自体が驚異的であると同時に、働く人々の姿に興味をそそられ、なおかつ退屈しそうになる直前の絶妙のタイミングで画面が切り替わりボストンの美しい建築物が映し出されるからだ。編集の妙をわきまえている作品である。

 この映画が撮影された当時のマーティン・ウォルシュ市長はその後、バイデン政権で労働長官に就任した。ウォルシュが熱を込めて市民に対して民主主義を語り、市職員を前に公務員がなすべきことを語る姿には思わず聞きほれ見惚れてしまう。

 なにしろ5時間近い映画である。そのすべてをとても語りつくせないし、もはや全部を覚えてもいられないのが悲しいが、たとえばスーパーの隣に大麻売店を作ろうとするアジア系移民の主張に反対する地元住民相手の説明会の描写はとても新鮮な驚きだった。なぜか中国語にしか聞こえない英語をしゃべるアジア人たちが「この大麻店のおかげで雇用が拡大できる」と熱弁する様子も手に汗握るスリルがある。マサチューセッツ州では大麻が非合法ではないことにまずは驚いた(というか、アメリカでは大麻合法の州のほうが多いみたいだ)。結局、この話し合いはどう結論づいたのだろう。

 多くの場面が「話し合いの場」を映していることもこの映画の特徴だ。まさに、徹底的な話し合い、民主主義のお手本のような映画だ。しかも結論までちゃんとわからなかったりするので、どう落とし前が付けられたのか観客は「その後」を知りたくなるだろう。

 ボストンは合衆国全体と比べて黒人の人口比率が高い都市である。白人が人口の半分であり、黒人以外にもアジア系も多く、多様性がボストンの特徴でもある。多様性とはつまり、利害関係が複雑ということと等価だ。既得権益者の不正が告発されたり、治安悪化が問題になることもしばしばのようだ。映画の中で闘わされる議論の一つ一つが、どういう町を作りたいのか、どういう社会を作りたいのかが問われる場面である。

 この映画は繰り返し見て、大学や高校の授業でも使いたい素材だ。特定の部分だけを見ても大いに考えさせられる。これぞまさに労働映画。働く人々の姿が尊くまぶしい。

2020
CITY HALL
アメリカ  Color  272分
監督:フレデリック・ワイズマン
製作:フレデリック・ワイズマン、カレン・コニーチェ
撮影:ジョン・デイヴィー
編集:フレデリック・ワイズマン

ユダヤ人の私

https://eiga.k-img.com/images/movie/94453/photo/59fe0c386725d6d8/640.jpg?1629423869

 ホロコーストを生き延びた104歳の老人が一人カメラに向かって淡々と自分の体験を語る。ただそれだけの映画なのに、一切退屈することがない。話の要所要所で章を区切るように、過去の国策映画やニュース映像が挿入される。それがブレイクタイムの役目を果たし、時には笑ってしまうような楽しい(!)戦意高揚アニメもあって、飽きさせない。

 語り部の老人の名はマルコ・ファインゴルト。オーストリアに生まれ育った厳格なユダヤ家庭の3番目の息子だった。彼の下には妹が一人いたので、きょうだいは4人ということになる。1913年生まれのファインゴルトが語る自分史はそのままユダヤ人の20世紀の苦難の歴史だ。第1次世界大戦に出征した父のこと、小学校ではユダヤ教徒からキリスト教徒に改宗した教師からユダヤ人差別を受けたこと、成人してからはイタリア人のふりをしてイタリアで仕事をして儲けたこと、1938年にドイツによってオーストリアが併合されたとき、たまたまイタリアから帰国していたために、国境封鎖の憂き目に遭ってイタリアに戻れなくなったこと。いくつかの幸運と不運が後の彼の運命を決めた。

 その後はチェコスロバキアポーランド、と追放と逮捕を繰り返し経験して刑務所間移送の末に、アウシュヴィッツ絶滅収容所への移送というお決まりのコースが待っている。収容所を転々と移送されているうちに、途中までは一緒だった次兄ともはぐれ、最終的にファインゴルトは1945年4月にブーヘンヴァルト収容所で解放された。

 彼の語る言葉は淡々と淀みなく、時に独特のユーモアを交え、きわめて理知的な印象を与える。この老人の話がまったく聞き手を離さないのは、その知的センスのゆえであることに気づく。収容所内でのエピソードですら哀切なユーモアの響きがある。そして、この収容所の中でユダヤ人は「ひと」でなくなった、という発言がずっしりとのしかかってくる。

 「たった数時間で、人間ではなくなったんだ。さっきまで名前のある人間だったのに、今では単なる数字で呼ばれるだけだ」。このセリフはどこかで聞いたことがある。そう、かつて絶滅収容所で暮らしたサバイバーの何人もが語った言葉だ。数字でしかなくなった囚人たちは、虐待の挙句に理性も感情も失ってただよろよろと歩く姿を「ムスリム」と呼ばれていたという、ジョルジュ・アガンベンホモ・サケル』の叙述を思い出すではないか。

 100歳を過ぎても忘れることができない、むしろ語り続け過ぎたために語りの型ができあがってしまったかのようなファインゴルトの言葉が、戦後76年経ってもまだわたしたちに訴えかけてくる、この消えることのない重さはなんなのだろう。彼はドイツの「被害者」だったオーストリアで生まれ育った。しかし故国が被害者の立ち位置にとどまることを許さないファインゴルトは、戦後も続くオーストリア反ユダヤ主義を痛烈に批判している。

 戦後、何十万人ものユダヤ人難民をパレスチナに送ったというファインゴルトはしかし、その後のパレスチナ問題に言及することはなかった。それはこの映画のテーマではないからだろう。過去の歴史をその後の連続性の中で語ろうとしたこの映画の試みは、今に続く反ユダヤ主義やネオナチ運動にも視線を向けている。歴史は終わっていない、たとえサバイバーが死に絶えても。ファインゴルトはこの映画の完成後まもなく死去している。

2021
A JEWISH LIFE
オーストリア   114分
監督:クリスティアン・クレーネス、フロリアン・ヴァイゲンザマー、クリスティアン・ケルマー、ローラント・シュロットホーファー
製作:クリスティアン・クレーネス、ローラント・シュロットホーファー
撮影:クリスティアン・ケルマー
編集:クリスティアン・ケルマー

 

 

これは君の闘争だ

https://eiga.k-img.com/images/movie/91515/photo/3fb1f2ea2a60b80e/640.jpg?1630634243

 2016年の軽井沢スキーツアーのバス事故で亡くなった学生が最後に読んでいた本が、小熊英二『社会を変えるには』だったという記事が「朝日新聞」(2017.1.15)に掲載されている。日本の学生はなかなか社会を変えるための行動に立ち上がらない。安保法制反対運動の時にシールズなどの団体が生まれたが、いつのまにか解散してしまった。

 だが、ブラジルでは高校生が学校占拠という手段に訴えて、法律を変えさせるという力を発揮した。この映画は複数の撮影者が記録した映像を編集して、2013年以来の高校生と大学生の闘争を見事に活写した。なんといってもポップな編集が巧みで、いかにも南米の陽気な学生らしい雰囲気がよく表れている。社会運動に立ち上がった生徒たちのほとんどが貧困層で、つまりは黒人が多い。彼らはラップを歌い、踊り、叫び、デモし、学校に侵入し、占拠する。「バス代を下げろ」「学校統廃合に反対!」が彼らの主張だった。

 この映画は、運動当事者の3人の若者が当時を振り返り、ナレーターを務めるという構成をとる。今でも若者だから、2013年は小学生だった者もいる。高校生だった自分が映っている映像を見ながら照れたり笑ったりする様子も微笑ましい。

 もともとはバス代値上げ反対運動から始まった社会運動は、たちまち多様な課題を掲げるようになった。曰く、男女平等の実現、人種差別反対、LGBTQの権利を認めよ……。そして2015年には高校の統廃合に反対する生徒たちが学校を占拠し、その動きはたちまち全国に広がった。公共政策を進めてきたはずの左派政権の腐敗や汚職を批判し、彼らはついに大統領を辞任に追い込んだ。しかしその結果が、極右政権の登場へと道を拓くことになるとはなんという皮肉だろうか。2018年の大統領選挙で当選したのは「ブラジルのトランプ」と呼ばれているボルソナロだ。

 だが、その結果をどう考えるのかを問いかけるのがこの映画のテーマであると同時に、この巨大なうねりを作った若者たちの闘争が今に続いていることを高らかに宣言することもまたこの映画の目的ではなかろうか。

 大学生たちが全国学生連盟の総会会場で拳を突き上げ、それぞれの党派の旗を掲げてシュプレヒコールを上げる熱気は映画全体を覆う。その様子は50年前の全共闘運動を髣髴とさせるものだ。しかし、日本の全共闘と違って、ここにはヘルメットとタオルの覆面姿の学生は一人もいないし、角材もない。意見の違いによる左右・中間派の対立はあるが、内ゲバがないのが救いだ。

 映画の惹句に「軍警察が放った爆弾1発で、私たち高校生の給食529人分がぶっ飛んだ」とある。学生のデモに対して放たれた弾丸一発の値段を給食費に換算する彼らのセンスが光っている。

 この映画は、ボルソナロ大統領が就任する前夜に完成した。ここに記録された学生たちは結果的に極右政権を招いてしまったのだろうか。歴史の審判はまだ早い。「これは君の闘争」なのだから。

2019
ESPERO TUA (RE)VOLTA
監督:エリザ・カパイ

恋する寄生虫

https://eiga.k-img.com/images/movie/92912/photo/d9d176ac7ae1570c/640.jpg?1626670975

 寄生虫が宿主の精神状態を左右して支配するという物語の設定は、R.ドーキンス利己的な遺伝子』や瀬名秀明パラサイト・イヴ』を想起させる。頭の中に寄生虫が居る男女は寄生虫に操られて恋に落ち、虫の繁殖を助けることになる――そんな奇抜な発想で書かれた原作小説を映像はどう処理するのか。原作の設定を変えつつも、文字によって描かれた心象風景を映像で巧みに表現していく映画らしい作品に仕上がった。

 主人公は佐薙(さなぎ)ひじりという女子高生と、失業中の高坂賢吾27歳。原作では二人の年齢差が強調されていたが、映画では演じた林遣都小松菜奈の実年齢が近いためか、二人が恋人になるという設定に違和感がない。この二人は、佐薙が視線恐怖症、高坂が強迫性の潔癖症であり、二人とも社会に適応できないことに苦しんでいた。そんな二人がある日偶然出会って恋に落ち……だったら普通の恋愛物語なのだが、そうではなくて二人は偶然ではなく、ある意味強制的に出会わされたのである。なぜなら、二人とも同じ寄生虫が脳内に巣喰っていて、その虫たちが自らの繁殖のために二人を恋の糸で結ぼうと企んでいるから。やがては宿主を殺してしまうというその寄生虫の治療のため、二人は引き合わされたのだった。

 映画の巻頭、高坂がバスの中でパンを食べる中年男性を見て恐怖のあまり嘔吐したり、自分の手が汚れているという脅迫観念に取りつかれる様子をコミカルとも言える演出で映像表現しているのが小説との大きな違いで、これは映像力のインパクトをいかんなく発揮している。他人の視線が本人にはどのように見えているかを表現した、佐薙の視線恐怖症に至ってはほとんどマンガのようなのだが、こういう演出が徐々にシリアスに変化していく。

 二人の恋は本物なのか虫のせいなのか、虫を駆除すればもう恋心は消えてしまうのか。恋の行方をめぐる緊迫感はクリスマスイブに向かって盛り上がる。その日に向けて、高坂はある犯罪を企んでいた。果たしてその企みは成功するのか、世界が終わればいいと願ったかつての二人は変わったのかどうか。

 生きにくさを抱えて生きている人たちへの共感をこめた視線が美しい音楽と共に観客に響いてくる。湖でのクライマックスシーンへと至る静かで落ち着いた風景にはハッとさせられた。柿本監督、これから先も楽しみ。

2021 日本  Color  110分
監督:柿本ケンサク
製作:堀内大示ほか
原案:三秋縋 『恋する寄生虫』(メディアワークス文庫KADOKAWA 刊)
脚本:山室有紀子
撮影:カテブ・ハビブ
出演:林遣都小松菜奈井浦新石橋凌

私は、マリア・カラス

https://eiga.k-img.com/images/movie/89002/photo/2a3362ee790a7072/640.jpg?1537931595

 こういう伝記ドキュメンタリーをなんの期待もなく見ると実は面白い、という感想を持ってしまう。わざわざお金を払って映画館へ行っていたら腹が立つかもしれないが、就寝前にベッドの中に毎晩持ち込んでいるiPadで見る映画としてはまったく問題なく楽しめる。

 そもそもマリア・カラス本人が遠の昔に亡くなっているのだから、今さらなにか新しいものがでてくるわけではなかろう。とはいえ、もともと彼女が生前に公開予定だった自叙伝が朗読されるところが瞠目である。

 オペラ歌手がそんじょそこらのアイドル歌手よりはるかに人気があったなどということがもはや信じられない21世紀にこの映画を作ることの意味はなんだろうか。日本ではまず考えられない設定だ。

 しかしこの映画を見れば、マリア・カラスが不滅のアイドルであったことがわかる。もう音楽の鑑賞のしかたじたいが変わってしまったのだ、今や。日本ではオペラ(特に海外の)を見に行く人など上流階級である。実はわたしは一度も生のオペラを見たことがない。なにしろチケットが高すぎるから買えないのだ。つまりわたしも下流国民である。

 死ぬまでに一度は生のオペラを見てみたい。(Amazonプライムビデオ)

私はマリア・カラス

2017
MARIA BY CALLAS
フランス  113分
監督:トム・ヴォルフ
製作:エマニュエル・ルペールほか
朗読:ファニー・アルダン
出演:マリア・カラス

希望のかなた

https://eiga.k-img.com/images/movie/87599/photo/532488956c18ec45/640.jpg?1505877752

 アキ・カウリスマキ監督の作品は久しぶり。どんなふうに作風が変わったのかと楽しみにしていたら、これがまったく相も変らぬカウリスマキ調大展開。巻頭からしばらくののんべんだらりぶりにちょっと眠気を催し始めたころ、主人公のシリア難民とフィンランドの料理店オーナーが出会うこととなる。ここからが怒涛のオフビート展開!(語義矛盾)

 いやもう、たまりません、はらはらどきどき、笑えそうで笑えないジョークの数々。料理店が儲からないからメニューを変えようと、「今のトレンドは寿司だ!」といきなり寿司屋に変身するレストラン。ここはもう目が点になるお笑い箇所だ。

 さてあらすじは。シリアからの難民カーリド青年はフィンランドにたどり着くが、難民申請を却下されて強制送還の危機に遭う。やむなく収容施設を脱走したカーリドは偶然出会ったレストランのオーナーであるヴィクストロムに拾われ、オープンしたばかりの店で働かせてもらえることになる、という、難民・移民、人種差別という社会問題を大きなテーマに、でもそれらの問題を笑い飛ばすような人情味篤い人々の面白おかしい日常風景が描かれていく。

 カウリスマキ監督の常連役者たちがゾロゾロと登場するので、彼らが画面に出てきた瞬間にもう笑いそうになる。どう見ても役者の華がない中年ばかりがキャスティングされ、たまに若い女性がいてもまったく冴えないぽっちゃり体型の不愛想なウェイトレス、という役どころ。

 カウリスマキの作品は観客の好悪がはっきりするので、相性が悪い人は全然受け付けないだろう。わたしも、これまで「いまいちやなあ」と思いながら見てきたのだが、この作品はこれまでで一番面白く見ることができた。難民問題という焦眉の社会問題を取り上げたことに関心を惹かれたことが一つの要因だろう。

 しかし、「希望のかなた」と言いながら、希望がなさそうなラストシーンはとても悲しい。現実はあまりにも厳しいということか。(Amazonプライムビデオ)

2017
TOIVON TUOLLA PUOLEN
フィンランド  Color  98分
監督:アキ・カウリスマキ
製作:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
出演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、シーモン・フセイン・アル=バズーン、カイヤ・パカリネン、ニロズ・ハジ