肥汲み人たちが主人公になる映画なんて本邦初ではないか。差別され蔑まれる彼らを主役に置き、その一人に恋する落ちぶれた武家の娘が声を失っているという設定は、幾重にも「欠落」や「スティグマ」を表現している。
映画に匂いがなくてよかったとわたしは心底思ったよ、実際に人糞の臭いが漂ってきそうな場面では思わず顔をしかめてしまったし。さらにこの映画がモノクロであることも便所の神に感謝した。本作を見て、その昔「ぽっとん便所」暮らしをしていた小中学生のころまでの生活を思い出した。そのころは、毎週(?)決まった日に市の清掃局からバキュームカーが来て、各戸の便所の汲み取り口から糞尿を吸い取っていた。その臭いは半端なく臭かったが、わたしの母は「あの人たちのおかげで生活できる」と感謝の言葉を忘れなかった。今思えば随分若い人たちがその作業をしていたものだ。あの人たちはこの仕事をしているために他人から「臭い」と言われたり馬鹿にされたりするのだろうか。子ども心にそんなことが気にかかったことを思い出す。今でいうエッセンシャル・ワーカーの彼らが働いてくれるおかげだという感謝の念はそのころも今でも強く持っているが、逆にいえば「自分の仕事ではない」とどこかで思っていたフシがある。
さて、江戸時代、そして明治時代になっても長らく人糞は畑の肥やしとして貴重品だったのだ。だから、その糞尿は長屋の大家の財産であり、金銭で買い取られていたのだった。そんな歴史を思い出しながらこの映画を見ていた。この映画の時代は幕末で、今まさに武士の時代が終わろうとしていたとき。屑物拾いの若者二人が、今度は下肥え汲み稼業を始める。汚穢屋(おわいや)と呼ばれる商売だ。その若者二人組と偶然にも袖触れ合う機会を得たおきくは、若者のひとり中次(ちゅうじ)に心ときめかせる。そんな折におきくの父が謀略に遭って命を落とし、おきくも喉を切られて声を失ってしまう。
おきくの父は佐藤浩市が、そしておきくが惚れる中次は寛一郎が演じる。つまり佐藤浩市と寛一郎の親子共演である。寛一郎はまだ演技が初々しいのだが、そこがかえってよろしい。黒木華はさすがの巧演。特に半紙に「ちゅうじ」と書いて一人顔を赤らめ悶えるシーンは映画史に残るんじゃないか。
生活の基盤を支える仕事をする人たちはしばしば蔑まれ、見下される。インフラを支える、なくてはならない仕事なのに、なぜ差別されるのか。この仕事に比べれば、右から左に株を動かして巨万を儲ける株屋のほうがよほど恥ずかしい仕事だ。
この映画は、まだ「世界」という言葉も「青春」という言葉も存在しなかった時代に、その言葉を操る若者たちの微笑ましくも恥ずかしい恋愛を描く。彼らの明日が明るいかどうかはわからない。けれど、たくましく生きる彼らこそが次の時代の「せかい」を開くのだ。
2023
日本 B&W 90分
監督:阪本順治
製作:近藤純代
企画・プロデューサー:原田満生
脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
音楽:安川午朗
出演:黒木華、寛一郎、池松壮亮、眞木蔵人、佐藤浩市、石橋蓮司