吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ラーゲリより愛を込めて

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 もう、「泣かせの瀬々」と呼んでもいいのではないか。劇場内はすすり上げる音が響く、ラスト数十分。だからこそ、賛否両論に分かれる本作だ。否定論者曰く開戦に至る経過が描かれていない、曰く日本人が被害者としてしか描かれていない、曰く北川景子に生活苦が感じられず美しすぎる、曰くお涙頂戴……云々。

 わたしの知り合いにシベリア帰りの労組幹部が居た。馬場新一というその人は90歳を過ぎても矍鑠(かくしゃく)として、わたしに会うたびに「一杯飲みにいこ、谷合さんと飲みたいねん」と言っていた。孫のような世代のわたしに伝えたいことがたくさんあったのだろうと今にして思う。もちろん何度も一緒に複数人で飲んだことはある。しかし、もっとじっくりご一緒すればよかったかと悔やむ気持ちもある。ラーゲリから生きて帰った人はそれだけでも体力があるっていうことだろうな、シベリア帰りは強いなあと、わたしはいつも感嘆していた。馬場さんが書いた『行き交う人々』(2003年)のラーゲリの思い出話を読む限り、この映画よりももっと悲惨なことが描かれている。隣で寝ていた男が朝には死んでいた、という経験を何度も繰り返すともう感覚がマヒしていくような。

 さて本作は実在の人物、山本幡男(はたお)たちのラーゲリでの11年を描く。満鉄調査部に勤務していた山本は、敗戦直後にソ連軍に連行され、戦犯として25年の刑を言い渡される。映画でははっきり描かれないが、「満鉄調査部」勤務でロシア語堪能と聞いただけで彼が左翼であったことが、わかる人にはわかるのだ。満鉄調査部は「転向左翼」であるインテリの吹き溜まりといえるような場所であり、つまりは非常に優秀な頭脳の持ち主たちが集まっていたのである。この点が映画ではほのめかし程度しか描かれていないところが残念だが、一般受けを狙う商業映画ではしょうがないのかもしれない。実際のところわたしにしても、山本が3.15事件で逮捕されているということを映画鑑賞後にWikipediaを調べて初めて知ったのだ。

 山本の強く気高い精神性は何によって涵養されたものなのか、彼が社会主義者であったからではないのか。しかしだからこそ、夢見た理想の社会主義国家であったはずのソ連で受けた仕打ちは彼を絶望で打ちのめすには十分であっただろう。戦争がやっと終わったというのに、60万人の日本人がシベリアに抑留されたという出来事は国際法違反である。当時スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れるソ連にあっては密告が日常化し、互いに監視と裏切りの渦の中で翻弄され、人々は恐怖のうちに暮らしていたであろう。その空気は遠くシベリアまで浸透していた。

 そんなシベリアでは最初の冬を越せない抑留者が大量死した。山本はそこで9年を耐えたわけだが、彼は抑留者たちの中に依然として温存された軍隊の階級制を極端に嫌った。そして何度も元上官に逆らい、ソ連の監視人たちに逆らい、重労働に堪える仲間たちの待遇改善を訴えた。収容所内で持ち前の博識を発揮して文字が読めない者に文字を教え、俳句を教え、日本文化の勉強会を持った。ソ連の弾圧をかいくぐって行われたこれらの文化活動は、やがてソ連側からも「生産性向上に役立つ」とみなされていく。

 時に絶望から自殺する者や逃亡して射殺される者が出るラーゲリの中で常に希望を失わず仲間を鼓舞した山本も、ついに病に倒れる日が来る。帰国が絶望的となったとき、山本が行ったこと、仲間が行ったこと、それらは信じられないほどに見る者の心を打つが、すべてほぼ実話である。

 実話と言いながら、この映画ではいくつかの事実が伏せられている。その「隠された真実」が『週刊朝日』2023年2月10日号に掲載されていて、これには仰天した(Wikipediaにも多少触れられている)。そしてもう一つの大事な事実が書かれている、山本幡男の長男顕一のホームページを読んでほしい。幡男が軍と軍国主義を憎んだこと、靖国神社に合祀されていることを妻モジミは潔しとしなかったこと、顕一が父と同じ志を継いで戦争反対・反安倍政権の意思を強く訴えていることなどが綴られている。

2022
日本  Color  134分
監督:瀬々敬久
企画プロデュース:平野隆
原作:辺見じゅん 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(文春文庫刊)
脚本:林民夫
撮影:鍋島淳裕
音楽:小瀬村晶
出演:二宮和也北川景子松坂桃李中島健人寺尾聰桐谷健太安田顕、奥野瑛太市毛良枝