吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

チャンシルさんには福が多いね

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 映画が好きで好きで、だからプロデューサーという仕事を選んだのに、一緒に働いていた監督が急死したために映画製作は頓挫し仕事を失ったチャンシルは40歳の独身女。やむなく家賃の安い下宿へと引っ越すことになり、その場所はソウルの高台にあるといえば聞こえがよさそうだが、車も入ってこられない急な階段を登り切った果てにある小さな家だ。

 今日からここで暮らすチャンシルは仕事がないので、知り合いの若い女優の家政婦になる。その女優は何かと習い事で忙しくおまけに片づけられない人なので、チャンシルがせっせと働くわけ。で、その女優ソフィーが個人レッスンを受けているフランス語の教師ヨンがソフィーの家にやってきて、なんと彼の本業は短編映画の監督というではないか。同じ映画人同士チャンシルと仲良くなり、彼女はヨンに熱を上げるのだったが……。

 チャンシルという名前は「燦実」という漢字が当てられる。これを知っていないと、チャンシルさんが果樹の熟れた実を見上げながら「腐って落ちるだけ」と溜息をもらすシーンの悲哀とユーモアがわからない。などとえらそうに書いているが、実はわたしも映画を見終わってからパンフレットを読んで知ったのであった。

 がむしゃらに働いてきて、ふと気づくと40歳になっていた。結婚も出産もしていない、金も家もない。すべてを映画に捧げたのに、今はその映画の仕事もない。ないない尽くしのチャンシルさんには「福が多い」って?

 そんなチャンシルの周囲に配置された人物がユニークで楽しい。大家のおばあさんは夫と娘を亡くして一人暮らしだが暗い影は見えず、今まで教育を受けてこられなかった人生だったので、いまさらのように字を習い始めている。老女になっても懸命に字を書く練習をして、しかもそれをチャンシルがいつの間にか手助けするようになっているという、あらかじめ奪われていた女の人生を取り戻す静かな営みがじんわりと観客の心に響く。

 ランニングシャツと短パン姿のレスリー・チャンの幽霊もチャンシルにとっては思いを吐き出す格好の相手だ。この幽霊がケッサクで、そういえば時々画面の中を短パン姿の男が横切っていたなぁと後から思い出すのだが、ある日突然チャンシルの前に登場して「俺はレスリー・チャンだ」と言い張る。「似てないやんか!」とチャンシルに言われても動じない。この幽霊を演じたのが大ヒットドラマ「愛の不時着」で「耳野郎」役だったキム・ヨンミンである。なんと今年50歳! 25歳にしか見えない驚異の童顔俳優だ。

 このようなファンタジー色もまぶして、映画は淡々と進む。それはチャンシルが好きだという小津安二郎監督の作品のようでもある。

 エンドクレジットと共に流れる主題歌の歌詞を見ていたら、「男がいない、仕事がない、家がない、子どももいない」という否定形と「チャンシルさんには福が多い」という肯定文との間には、接続詞が置かれていないことに気づいた。つまり、「それなのに」なのか、「それゆえに」なのかが判然としないわけだ。そこがまた面白い。

 チャンシルが恋した短編映画の監督は小津が嫌いで、クリストファー・ノーランがいいと言う。小津だろうがノーランだろうが、それは人それぞれの好みなのだ。だから、チャンシルの「福」はチャンシルのものであって、それは他人がとやかく言うことではないだろう。何が福なのかは誰にも決めてほしくないし、強制できるものでもない。

 主演のカン・マルグムの見事な演技がチャンシルという女性に存在感を与えた。いい映画を見せてもらったという心持ちでほっこりし、さらにラストシーンに胸が熱くなる。

2019
韓国 Color 96分
監督:キム・チョヒ
脚本:キム・チョヒ
撮影:チ・サンビン
音楽:チョン・ジョンヨプ
出演:カン・マルグム、ユン・ヨジョン、キム・ヨンミン、ユン・スンア、ペ・ユラム