罪と罰を問う物語。イ・チャンドン監督の前作「シークレット・サンシャイン」と同じテーマだが、演出がかなり異なり、リズムがゆったりしている。よく言えば静かでゆったりしており、悪く言えば間延びしている。「シークレット・サンシャイン」も淡々とした描写で進んでいたが、この「ポエトリー」ではその傾向がさらに強くなっている。しかも心理を顕す台詞がほとんどない。
物語は集約していくのではなく、どんどん拡散していく。焦点が絞られるのではなく、緩められ、観客の緊張感をふっとそらすようなリズムで展開する。どこか、すかされているような感がある。そう、まさにこのリズムこそが「詩」なのだ。
主人公はミジャという名前のおしゃれで可愛らしいおばあさん。ヘルパーの仕事で中学生の孫と二人の生計を立てているが、慎ましい生活は苦しく、孫の母親である自分の娘は釜山で働いている。ある日、ミジャは詩の創作教室に通って詩作を始めようと思い立つ。そんなときにミジャが初期のアルツハイマー病に罹っていることが判明する。ミジャは失われていく言葉を取り戻すかのように「詩」に夢中になり、身の回りのあらゆるところに「美」を発見しようと努力する。だが、孫が仲間たちと一緒に女性中学生を自殺に追い詰めたことが発覚、遺族との示談を迫られることになり…。
花のように綺麗な服を着て外出する綺麗なおばあさんミジャは、浮世離れした少女のようなあどけなさを表情に湛えている。彼女の周りには美しいものしかない。美しいものしか見たくない。そして美しい詩を書きたい。そんなミジャの願いを踏みにじるような現実が襲いかかる。孫の非行、自身の病気、ヘルパー先でのセクハラ。様々な重圧がミジャを苦しめるが、映画ではそんなミジャの心の奥底をはっきりとした台詞で描いたりはしない。人間の欲望や身勝手さが次々と描かれていくが、いっぽうでこの作品で描かれている人間の醜さや自己保身は誰もが持っているものであり、誰もがなにかしら身に覚えがあるのではなかろうか。
演出で気になったのは、詩作の朗読会の場面。自然な描写を狙ったのかもしれないが、役者ではなく素人を使ってしかも脚本も書かずに即興で台詞を言わせているのではないかと思われる演出には違和感を持った。この場面があるので、いっそう映画の緊張感が緩む。
いったいどこに向かっているのかまったく先が見えないゆったりとした物語は、しかし徐々に緊張を増す。ミジャの病状が少しずつ悪化し、ささいな失敗を重ねることで彼女の身の置き所がなくなる場面などは実に上手い演出だ。ミジャが物言わぬまま抱えてきた孫の罪。その罪に彼女自身がどう向き合うのか。そのつらさを突き詰めた先には、「死」がある。死んだ女子中学生の最期の姿、彼女が最期に見たもの。ミジャにはそれが見えたのだろうか。緩慢な死を死につつあるミジャが詩を紡ぐとき、その詩は少女の死と結ばれる。わたしたちはこの映画の破調のリズムや散文調の流れが、やがてゆっくりと<詩>に収斂していくことを知る。
何か一つの主義主張があるわけではない物語には、宙ぶらりんな感慨が残る。その残響は観客が抱える<穴>の中でこだまするだろう。穴が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、そのこだまはいつまでも聞こえてくる。そんな映画。
POETRY
139分、韓国、2010
監督・脚本: イ・チャンドン、製作: イ・ジュンドン
出演: ユン・ジョンヒ、イ・デヴィッド、キム・ヒラ、アン・ネサン、パク・ミョンシン