吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

TAR/ター

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 冒頭、ベルリンフィル史上初の首席女性指揮者となったリディア・TARがインタビューに答える長セリフの知的な緻密さにまずは圧倒される。淀みなく答えるTARを演じるケイト・ブランシェットの自信たっぷりで気高い美しさには惚れ惚れした。しかしここで字幕が男言葉である(ずっと最後まで男言葉)という設定にわたしは若干の違和感を持った。英語でしゃべっているのだから男女の違いはなさそうに思うのだが、日本語の話し言葉になるとどうしても性差が際立つ。TARは同性愛者であり、ベルリンフィルの首席バイオリニストと同性婚をしている、「夫」なのだ。いつも長身によく似合う高級パンツスーツに身を包んで金髪をなびかせている。そのあまりのかっこよさに鳥肌が立ちそうだ。しかしよく見ると、彼女はインタビューに答える間、しばしば左手で耳を触る。これが本作の伏線だったと後で気づく。

 前半は特に理屈っぽいセリフが多くてしかもしばしば長回しで撮られていたりするので、それらの場面の撮影は大変だったろう。そしてその画面の中心にいるケイト・ブランシェットが指揮者以外の何者にも見えない、見事な演技を見せてくれる。TARは天才の名を欲しいままにし、頂点に上り詰めた権威。マエストロと呼ばれることに慣れてしまった権力者だ。

 彼女はドイツのオケを指揮するのだから、当然にもドイツ語も操る。練習場面ではドイツ語と英語が入り乱れ、どちらもちゃんとオケのメンバーに伝わっているところがすごい。マーラー交響曲の録音がもうすぐ完成するとうところまでこぎつけた、最後は5番を吹き込む。映画では第4楽章が演奏され、リディアはヴィスコンティの名前を出してジョークでオケを笑わせる。「ベニスに死す」のおかげですっかりポピュラーになったあの第4楽章、でも字幕にはヴィスコンティの文字はなく、「映画の音楽とは別物と思え」というセリフになっていた。

 TARが次のチェロ奏者をオーディションする場面で、わたしはカラヤンを思い出した。カラヤンが若い愛人(と噂される女性クラリネット奏者)を抜擢したことにベルリンフィル内から批判があがっていたこと。そのザビーナ・マイヤー事件がモデルと思われることがこの映画でも描かれる。そのチェロ奏者の演奏がうますぎるのでどうやって撮影したんだろうと思っていたら、その奏者は本物の演奏家だとか。なるほど。

 物語が進むほどにTARは幻聴に悩まされるようになり、薬が手放せなくなる。やがて彼女の教え子が自殺し、原因がTARのパワハラだったとSNSで拡散される。さまざまなことが重なり、TARはベルリンフィルを放逐されることに。

 とまあ、権威の絶頂にあった高慢人間が落ちていく様子を描いた作品なので、後味は悪い。いったい何がいいたかったのかよくわからない映画だ。そもそもリディア・TARは女性だが、男と同じだ。家事育児にはほとんど携わらず、仕事漬け。浮気はするし、上昇志向が強くてパワハラ的な発言が後を絶たない。要するにいやなやつなのだ。

 映画の冒頭がスマホの画面というのも象徴的で、この映画ではTARの悪評はSNSを通じてあっという間に広がる。いつでもどこでも誰かが彼女の姿を録画していて、しかも悪意のある編集を行ってフェイク情報を拡散させている。

 この映画は監督も脚本もトッド・フィールドが行っている。彼の経歴に興味をそそられたのでWikipediaで調べてみたら、どうやら音楽教育を受けてきたようで、芸術学の修士号も持っている。

 この映画では、栄誉を失ったTARが恩師バーンスタインの若かりし頃のVHSビデオを見て涙を流すシーンが印象に残る。そこには音楽の本質を語る姿があったのだ。最後に流れ流れて彼女はアジアの奥地へ行く。そこで指揮する姿はいったい何のメタファーなのだろう? ラストシーンの意味がよくわからない。

 ところで、この映画で描かれた2つのことが引っかかる。

①「バッハは白人で20人の子どもを女たちに産ませたような人間だから、興味がない。音楽も聴かない」と言った男子学生(西アジア系か?)をTARが諭す場面。

②なぜTARが落ちぶれて流れ着く場所が東南アジアなのか

 

①は、セクハラ・パワハラをするような人間とその作品は別物、ということが言いたかったのか?

②は、落ちぶれた末路が「未開の、遅れた」アジア行きであるというアジア蔑視が表出しているのでは?

①ではジャニー喜多川を思い出す。「ジャニーは鬼畜だが、彼の手腕は本物で、タレントには罪がない」「ジャニーのやったことは許せないが、業界への功績は素晴らしい。恩を感じている」という意見。

 この映画は印象に残るのに、まるで謎だらけだ。謎が解けないからこそ、すっきりしないからこそ印象に残るのかもしれない。間違いなく言えることは、ケイト・ブランシェットの素晴らしさだ。なぜ今年のアカデミー賞でエブエブのミシェル・ヨーに主演女優賞を持っていかれたのか理解できない。(Amazonプライムビデオ)

2022
TAR
アメリカ  Color  158分
監督:トッド・フィールド
製作:トッド・フィールドほか
脚本:トッド・フィールド
撮影:フロリアン・ホーフマイスター
音楽:ヒルドゥル・グーナドッティル
出演:ケイト・ブランシェット、ノエミ・メルラン、ニーナ・ホス、ソフィ・カウアー、マーク・ストロング