さて物語は。老境を迎えた夫婦のもとに「ノーベル文学賞受賞おめでとうございます」という電話がかかってくる。時代はどうやらクリントン大統領の頃らしいので、1995年ぐらい。この夫婦、作家として名を成した夫ジョセフの作品はすべて妻のジョーンが書いていたのだった。それは世間に絶対知られてはならない二人だけの秘密だ。しかし、大作家ジョセフの伝記を書こうと夫婦の周囲をかぎまわるライターのナサニエルはその秘密を暴こうとする。ノーベル賞の授賞式が行われるストックホルムに向かう夫妻とともにナサニエルもストックホルムにやってきた。果して大スキャンダルは暴かれるのか。
という、なかなかに緊張感のあるストーリー。ノーベル賞授賞式の楽屋裏も垣間見えるので、たいへん興味深い。しかしながら、大画面で見てこその広がりや奥行がほとんど見られないのが残念。また、原作小説が2003年に発表されていて、なんで今頃その映画を作るのか、意図がよくわからない。物語は1958年に始まり、女性が抑圧されている時代から40年が経ってもまだかわらない世の中への怒りを込めたとしたのなら、今の時代性を映画に込めるべきではなかったか。21世紀の映画なのだから、もう少しヒロインの性格付けをアグレッシブにしてもよさそうと思ってしまった。とりわけ、MeeTooの嵐の後では。
そして、妻を支配していたようで実は支配されていたのではないかと思えるジョセフ、彼の心理があまりこの映画ではわからなかったのだが、自信のない男に限って異性の前では自分を大きく見せようとし、挙句に次々と浮気を繰り返していたものと推測できる。本来彼は優秀な編集者だったのだろう。ストーリーを思い付く才能もあったはずだ。だったらその仕事に徹すればよかったのだ。しかし時代がそうはさせなかったという、男にとっても女にとっても不幸な1950年代だったと言えるだろう。
さて、ラストシーンのその後について考えてみよう。この映画は何通りにもその後を考えることができるので、そこが優れた点だ。以下、完全ネタばれにつきご注意。
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「すべてを話すわ」と息子に言ったジョーンは何を考えているのだろうか。彼女にすれば自分の作品をこれからも書きたい。しかし夫は亡くなってしまった。次は自分の作品を息子の名前で発表し、息子を小説家として大成させるのか? いずれ息子が10年もすれば真実を語るときがくるのではなかろうか。「夫の名誉を傷つけたら訴える」とライターのナサニエルに釘を刺した本心はいずこに。
あるいは、しかるべき時間が経てば彼女が実名で小説を書くのか。そうなると夫との作風の酷似が批評されるだろう。
三つ目の選択肢。ジョーンが真実を告白する。その時、ジョセフへのノーベル賞は剥奪されてしまうだろうが、だからといってジョーンに与えなおされるとは限らない。
いろいろと「損得」(金、名誉、自尊心)を考えたとき、ジョーンはどういう選択をするのだろう。とても興味がわく。