あれから1年が過ぎた。今日は追悼の日。
1年前のそのときのことははっきりと覚えている。仕事中だった、大阪でも大きな横揺れがやってきた。
そして次々に明らかになる大きな被害。言葉を失くし、涙にくれた。その後、東北へは2回訪れた。2回目の9月になってやっとわたしは沿岸部を見て回ることにした。一回目の5月は時間がなかったこともあるが、正直言うと、津波の跡を見るのが怖かった。9月なら少しは状況もよくなっているかも、と思うと同時に、もしまだ爪跡がそのままなら、今のうちに自分の目で見なくてはいけない。そんな気がした。そして訪れたのは福島県南相馬市。ここは大学時代の友人の故郷だ。平成の大合併で南相馬市になったが、元は原町だった場所にやってきた。常磐線が寸断され、東北地方の沿岸は南北の移動が容易ではない。わたしも仙台から原町まで電車と代替バスを乗り継いで何時間もかかってたどり着いた。
南相馬市で最初に訪れた南相馬市立中央図書館の素晴らしさは既にエル・ライブラリーのブログに書いたので割愛する。今日書くのは、9月に書けなかった、南相馬の海岸での話。
南相馬市立図書館を訪ねた翌朝、図書館のすぐ前にあるホテルで借りた自転車に乗って湾岸部を走った。土台しか残っていない家がいくつも見え、骨だけになった建物もいくつも見えた。津波にさらわれた戸や襖やガラスが無くなり、中が丸見えになっている家が何軒もあった。家具や食器などの生活の匂いがするものがそのまま残され泥まみれの無残な姿を晒しているのがいっそう悲惨だった。いっそなにもかも流れていってしまったほうがよかったのではないかと思えるほど。
辺り一面何もない草原の中の一軒の家の跡とおぼしき場所に老夫婦が車を止めて懸命になにやら運び出している姿を目撃し、思わず自転車を止めた。
「こんにちは〜! あの〜、何をしていらっしゃるのですかぁ〜?」と大声で道路から声をかける。
「庭に敷いていたブロックを拾ってるんです」という訛りの強い言葉が返ってきたが、たぶんそういう意味のことを言っているのだろうと推測するしかない。
「ここはお宅があった跡ですか?」
「そうです」
「ブロックを拾ってどうするんですか?」
「今度新しく家を建てるときに使えるかなと思って。もったいないからね」
その言葉を聞いて胸がつまった。思わず、
「わたし、手伝います。一つでも拾います」と言って自転車を敷地跡に乗り上げ、鞄を土台跡のブロックの上に置いて一緒に煉瓦風ブロックを拾い始めた。内心、「こんなもの拾っても何の役に立つのだろう?」と思うが、もちろんそんなことは言わない。
この老夫婦は今、仮設住宅に住んでいて、いずれは新しい家を再建するつもりでいる。そのとき、この家のブロックが使えるものなら使いたいと思って毎日毎日毎日ここにやってきてレンガ状のブロックを拾い続けているのだ。
「もう3000個拾いましたよ」と妻が言う。
拾っては軽自動車に積み込む。その気の遠くなるような作業を毎日やっているのだ。腰も痛くなるだろうに。この日は南相馬の最高気温は30度を超え、日向では熱中症になりそうな暑さだった。さえぎるものがなにもないだだっぴろい草原の中でひたすらブロックを拾う老夫婦の姿にやりきれなさが募る。
完全な形を残しているならまだしも、真ん中から真っ二つに割れたブロックが半数を占めている。けれど、わたしも少しでも綺麗に見えるブロックを拾って泥を払い、車の荷台に積んだ。
老夫婦は問わず語りに思い出を語る。ここが縁側でね、ここの庭には立派な石があってねぇ、孫がまだこんなに小さな背丈だったころ、ぴょんぴょん跳んだんだよ、危ないから止めろっていってもわかんねえしねぇ。思い出の石だったんだ、それは。
眼を潤ませて語る老人の言葉にこちらも思わず大きくうなずきながら、「思い出の品なんですねぇ。それが全部流されたんですねぇ…」と返す。
「40年、ここで農業して働いてきた。でも全部無くなった。全部無駄だったよ。財産全部無くした。金庫まで流されちまったよ」
老人たちの言葉は訛りがきつくて半分ぐらいしか理解できなかったが、彼らの悔しい思い、思い出の品への心からの執着、土地への思いはじゅうぶんに伝わってくる。
拾わずにはいられないのだ。唯一残された、庭に敷いていた敷石のブロック。ほんとうは彼らだってわかっているはずだ、こんなもの拾ったって役に立たないっていうことは。でも拾わずにはいられないのだ。それしか残っていないのだから。
残された玄関ポーチと残った土台から見るにかなり立派な家だったことは分かる。息子夫婦は子どもを連れて山形県に避難しているという。「放射能があっからね」
草ぼうぼうの原のなかに一輪、真っ赤な花が咲いていた。不思議に思って眺めていたら、老婦人は「そこの家のおばあさんは80歳でね、行方不明だ。その花はおばあさんのほうにむいて咲いているんだよ。ここに来る人はみんな写真を撮っていくよ」と語ってくれた。
おばあさんが流された家の土台だけが残っていて、その土台から小さなペチュニアも咲いていることがわかった。草原の中で一輪だけ真っ赤に咲いているように見えた花も近づくと3輪ほど咲いていた。誰が手向けたのか、土台の隅には花束も添えてあった。
あれから半年が経った。あの老夫婦はどうしただろうか。残りのブロックもすべて積み終わっただろうか。そして、そのブロックは今、どうなっているのだろう。
わたしの仕事は記録を残し、次世代へと繋ぐこと。記録は人々の記憶を呼び覚まし、過去を知り、過去に学び、アイデンティティを構築してくれる大切なものだ、と信じている。あの老夫婦にとって記憶を繋ぐものは割れたブロックしかなかった。ブロックを大切に一つずつ拾い上げる気の遠くなるような作業を、見渡す限り何もなくなってしまった場所で黙々と続けていた老いた夫婦の姿をわたしは忘れない。記憶を繋ぐこと、記録を残すこと。そのことの意味をいま、改めて思う。