吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

サラの鍵

 「黄色い星の子供たち」と同じ題材なのに、深さがまるで違う。「サラの鍵」にはベンヤミンの歴史哲学が横たわっている。「黄色い星の子供たち」を見たときには感動したし、それなりの良品だとは思ったが、「サラの鍵」を見てしまうと、前者の平板な作りが目についてしかたがない。「黄色い星」は感情に訴える作品だが、「サラの鍵」は知性を刺激する。

 真実を知ることが人を不幸にすることは大いにありえる。それでもジャーナリストや歴史家は、払っても真実を暴こうとする宿痾に冒されているものなのだろうか。それがジャーナリストの性(さが)なのか。

 隠された記憶を暴き、過去の傷と向き合う。戦争犯罪と向き合うとは、そういうことなのだろう。そして戦争の記憶とは、決して戦場の記憶だけには限らない。戦争加害の意味もまた、誰かを肉体的に殺傷したということだけにはとどまらない。戦時下にあっては、多くの人が多かれ少なかれ戦争犯罪に加担、あるいは黙認した。この映画は、記憶の奥深くにしまい込まれた真実を暴き、そのことによって傷つきながらもそこからしか人々は未来に向かって歩み出せない、その苦しみと希望を描く。


 1942年7月パリのユダヤ人狩り。それはフランス警察が行ったことだった。ナチスの要請に対し、その要請を上回る残酷さを以てフランス政府は応えた。子どもを含む13000人が逮捕され、数日間をヴェル・ディヴ(冬期競輪場)に閉じ込められて劣悪な環境で過ごし、その後、パリ郊外の収容所を経てアウシュヴィッツへと送られた。生き残ったのはわずか400人と言われている。

 物語はその7月16日、パリのアパートの一室から始まる。幼い姉弟は早朝にドアを乱暴に叩く音で飛び起きた。ユダヤ人一斉検挙の朝、とっさに10歳の姉サラは4歳の弟ミシェルを秘密の納戸に隠した。「必ず迎えに来るから、出ちゃだめよ」と鍵をかけて。すぐに戻ってくるつもりだった。すぐに戻って来られるはずだったのだ。だがしかし…。

 そして場面は2009年へ。パリ在住のアメリカ人ジャーナリスト、ジュリアがヴェルディブ事件について記事を書くこととなる。偶然にも、夫の祖母から譲られたアパートにベル・ディヴ事件の被害者一家が住んでいた事を知り、何が起きたのか、真実を知ろうとする。だが彼女の真実への旅は、夫一家の「罪」を問うことになるかもしれぬ苦悩への始まりだった…。

 1942年と現在とを往還する物語は、舞台をパリ、ニューヨーク、イタリアと大きく移動し、ミステリー仕立ての展開が観客をぐいぐい引き込んでいく。

 本作は、国民的な「記憶喪失」に抗う試みであると共に、戦後世代にとっての新たな事実との出会いを模索するものである。無知は罪なのだ、とジュリアは思う。知らなかったこと、知らされなかったこと、それを暴き、真実へとたどりつきたい。だがそれは決して過去の罪を糾弾するためではない。

 本作を見ると、映画「愛を読む人」で戦犯裁判の被告となったハンナが、裁判長に「あなたならどうしましたか?」と尋ねた場面を思い出す。「サラの鍵」には、今を生きる人々が高見に立って過去を断罪するのではなく、現在をそして未来をどう生きるのかを我が身に翻って考え直させる再帰性(反省的知性)がある。それがまさにユダヤ人哲学者ベンヤミンの歴史哲学テーゼであった。

 過去に囚われた女性の生き方そのものが変わってしまう、それほどまでに過去の記憶は亡霊のようにジュリアの前に突然現れ、彼女をわしづかみにした。しかし、亡霊は決して彼女を不幸にしたわけではない。

 ラストシーン、わたしたちは記憶が語りつがれ希望へと変わる瞬間に立ち会うだろう。心震えるその場面をぜひ劇場で。

「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている」(W.ベンヤミン)。
(試写会で鑑賞。機関紙編集者クラブ(http://club2010.sakura.ne.jp/index.html)の『編集サービス』誌のために書いたものに加筆しました)

ELLE S'APPELAIT SARAH
111分、フランス、2010
監督・脚本: ジル・パケ=ブランネール、製作: ステファーヌ・マルシル、製作総指揮: ガエタン・ルソー、原作: タチアナ・ド・ロネ、共同脚本: セルジュ・ジョンクール、音楽: マックス・リヒター
出演: クリスティン・スコット・トーマスメリュジーヌ・マヤンス、ニエル・アレストリュプ、エイダン・クイン、フレデリック・ピエロ、ミシェル・デュショーソワ

 映画鑑賞後に原作を読んだ。映画は原作のよさを余すところ無く映像にした素晴らしい作品であることを今さらにながらに確認できた。と同時に、原作は映画が掬い取れなかった部分、とりわけジュリアの心の襞をすみずみまで描いて、中高年女性には胸に迫るものがある。映画よりもいっそう、ジュリアの内面が細かく描写されているので、夫婦の危機や葛藤がよく理解できる。


 原作と映画の違いをいくつか挙げてみると、ジュリアの立場が原作と映画では逆。原作のジュリアは7.16のユダヤ人狩りを知らなかった。また、原作では弟ミシェルは自分の意志で納戸に隠れるが、映画ではサラが隠したことになっていて、いっそうサラの自責の念が強くなるように設定されている。さらに、原作では夫ベルトランが大変男前で魅力的に描かれていて、浮気もしている。映画ではあまり冴えない中年男。ベルトランの人物像がかなり異なるのは、映画の限られた上映時間にドラマを収めるため、極力人間関係をややこしくしないために刈り取ったのであろう。原作ではベルトランが皮肉屋のフランス人を代表し、その異質な部分にアメリカ人であるジュリアが我慢できなくなっていく経過が興味深い。夫と夫の家族への違和感、異文化への嫌悪が徐々に大きくなっていくジュリアの心理が他人事とは思えず、引き込まれていく。

 過去の記憶が亡霊のように突然襲いかかり、「現在の私」の生活を根こそぎ変えてしまう。物語のミステリアスな風味をいっそう高める、この「過去の力」が、原作ではいっそうリアルに描かれている。


 ここで忘れてならないのは、名前の持つ意味だ。名前の重要性、名の持つ力と言い換えてもいい。途中まで、サラの名前は小説の中に登場しない。やっとサラという名前が登場するとき、彼女は悲劇のユダヤ人としての生を歩み出す。サラという名前が旧約聖書に由来する、典型的なユダヤ名であることが大きな意味を持つので、これから本書を読む人は基礎知識として持っていてほしい。


 本書のテーマは決して目新しくない。だが、構成がすぐれているため、最後まで読ませる力のある作品だ。結末は映画を見て知っているというのに、やはり感動して泣いてしまった。


<書誌情報>

サラの鍵 / タチアナ・ド・ロネ著 ; 高見浩訳. 新潮社, 2010. (新潮クレスト・ブックス)