午前十時の映画祭にて。
看護婦役のニコール・クールセルが美しい!
シベール役のパトリシア・ゴッジがクロエ・グレース・モレッツ(「モールスhttp://d.hatena.ne.jp/ginyu/20110811/p1」「キック・アス」)に似ているとうちの長男Yが何度も言うのもそうかなと思ってみているとなるほどそっくりに見えてくる。
本作は1980年代にリバイバルされた時がわたしにとっての初見で、青年と少女の無垢な純愛に衝撃的な感動を覚えたものだが、今見るとロリコン男を篭絡するいたいけな少女、という話に見えてしまうのはわたしが純情を失ったからか。しかし、やはりモノクロの映像はしっとりと美しく、わたしの記憶の中では娼婦だったはずの女性が実はありえないぐらい美しい看護婦であったことがわかって自分の記憶力のいいかげんさに愕然としたり、何かと1回目とは違う感動を覚えた2回目の鑑賞であった。
時代背景がわからずに見ると巻頭の飛行機のシーンが何を意味するのか分からないだろう。あれはインドシナ戦争時の事故であり、その事故のせいで主人公は記憶を失う。戦争で記憶を失い、しかもベトナムの少女を死なせたかも知れないという自責の念だけは強烈に脳裏に植えつけたまま後遺症に苦しめられて仕事もせず、献身的な看護婦に愛されてブラブラと生きる美しい青年ピエールはふとしたことから知り合った12歳の少女フラソワーズと毎週日曜日に逢瀬を重ねることになる。フランソワーズは父親に捨てられてカトリック教会付属の寄宿学校にいる。日曜日だけは「家族」と外出が許されているのだ。
フランソワーズは寄る辺なき身。ある意味、もっとも狡猾な弱者である。ピエールが自分に厚意を示したのをいいことに、「毎週会いにきて」と強要し、「わたしが17歳になったら結婚しましょう」と勝手に婚約宣言する。「フランソワーズは本名じゃないの。本名を教えて欲しかったら、あの風見鶏を取って頂戴」と教会の塔の上を指差して無理難題をふっかける。こんなとんでもない天使フランソワーズが愛らしく、お喋りが楽しくてしょうがないピエールは、同棲している恋人マドレーヌに内緒で毎週フランソワーズの元に駆けつける。
12歳のおしゃまなフランソワーズと記憶を失った青年ピエールはともに相手が自分の孤独を癒してくれる存在であることを本能的に知っている。だが周りの大人はそんなふうには見ない。彼らがだんだん追い詰められている様子がじわじわと描かれる後半は一気に緊迫感が増していく。だが、その割にラストがあっけなかった。あんなにあっけなかったっけ、と自分の記憶がまたまた怪しくなってしまったが、それでも最後にフランソワーズ(=シベール)が語った台詞が強く心に残る。「もはや名前は失われたのだ」と。たった一人、本名を教えた男との愛が消えたとき、シベールは名前を失う。そのギリシア神話の美しい名前は意味を失った。
愛と固有名、記憶、戦争の傷。語るべきものが多い映画。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
シベールの日曜日
CYBELE OU LES DIMANCHES DE VILLE D'AVRAY
116分、フランス、1962
監督:セルジュ・ブールギニョン、原作:ベルナール・エシャスリオー、脚本:セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル、撮影:アンリ・ドカエ、音楽:モーリス・ジャール
出演:ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ、ニコール・クールセル、ダニエル・イヴェルネル、アンドレ・オウマンスキー