見終わった瞬間、「いったい何がいいたい映画なのか?」と切ない余韻のなかで思った。わたしの頭を混乱させるほど、この映画はモロ元首相暗殺事件を幻想的にそして徹底的にテーマをそぎ落として描いた。赤い旅団の歴史と思想のすべてを描こうなどとはベロッキオの考えにはない。そして彼らの過ちを理屈で批判しようともしていない。
モロ元首相が誘拐される場面も暗殺される場面もないこの映画は、ほとんど動きのない室内劇だ。その禁欲的な演出は緊張感に満ちている。アパートの一室の中に作られた狭い「部屋」に閉じ込められたモロ元首相の様子を小さな覗き窓から見つめるキアラという若い女性が主人公だ。彼女に見つめられていることも知らず、モロは家族に手紙を書いたり祈ったり黙考したりする。アパートには赤い旅団の男たちが3人、入れ替わり立ち代わり見張り役をする。その中の一人がキアラと夫婦だと偽っている。
キアラを演じたマヤ・サンサは「輝ける青春」のときよりずっと美しく、印象に残る演技をしている。彼女の目が何度もアップになるのだが、その深く黒い瞳が見るものは亡き父の幻影だ。彼女の一族はどうやらパルチザン闘争をしていたらしい。キアラはいつしかその父とモロを重ねてみるようになる。キアラはずっとモロを見つめ続ける。だが、キアラとモロの視線が合うことはない。モロは監禁グループに女性がいることすら知らないのだ。だからこの視線は一方的にキアラからモロへの「片想い」として描かれる。それゆえに切ないのだ。父を想う気持ちとモロの無事を祈る気持ちが交錯し、しかもその思いは届かない。
「輝ける青春」でも赤い旅団の女性メンバーが登場し、彼女が殺人について懐疑的な意見を呟く。この映画でもやはりキアラにモロ殺害を反対させているし、ベロッキオ監督は女性にテロリストの論理の翻意を語らせている。女性原理がテロルの世界から人を救うといいたげだ。
気になるのは、モロ元首相が監禁されていても威厳を失わず、堂々とテロリストたちと議論し、しかも説得力があるという点だ。テロリストの青い理論は理論にすらなっておらず、彼らの言う「労働者」なんていったいどこにいるのか、といいたげな脚本だ。しかし、この映画の中では語られていないが、キリスト教民主党自身がかつて左翼狩りのための偽装工作を行った陰謀の党ではなかったのか? 爆弾事件を捏造してアナキストに罪をかぶせたのではなかったのか?
左派であるベロッキオ監督は、イタリア新左翼の歴史の中で突出した赤い旅団のテロル路線に批判の目を向けつつ、決してそれを他人事のように冷ややかな目で非難していはいない。だからこそ、キアラの見る夢の幻想的な美しさや悲しさが後を引く切ない作品になったのだ。そして、最後にテロップで説明された、モロの遺族が国葬に参列しなかったということが何を物語るのだろう? 政府はモロ元首相を見殺しにした。世論を味方につけようとした首相たちに赤い旅団はまんまと利用されたのだ。彼らはますます孤立し、労働者たちから離間した。
ほとんど身動きできないようなせまい空間に閉じ込められているモロを見つめ見張る若者達もまたアパートの一室に閉じこもっているだけだ。外の世界は彼らには存在しない。テレビを通じて自分達を非難する報道に苛立つばかり。その狭苦しさはまた、赤い旅団の思想の狭隘さの現れでもある。
ただ一人外の世界でふつうに働いているのはキアラだけ。キアラは大きな公共図書館のスタッフだ。広々した閲覧室と大きな書架が奥行きをもって映ると、わたしはほっとする。彼女達が暮らす狭い空間と狭い思考とは対比的に、外の世界(図書館)は広い。知の番人たるキアラがテロリズムと殺人に懐疑的になることの下地がここにはある。そして、キアラの同僚の存在。これがまたトリックスターであることが後ほどわかる。
物語が進むにつれ、追い詰められているのはモロではなく赤い旅団の若者達のほうだということに気づく。老獪な政治家は言う。「君たちのどこに労働者がいる? 我々の党こそ労働者農民に支持されている」。これは事実だ。もともと労働争議を支援する学生たちの運動から生まれた赤い旅団が、結局は労働者の支持を得られなかったことは皮肉だ。それゆえ彼らはいっそう過激な方針へと走った。しかし、赤い旅団の中にも新しい運動の萌芽はあった。それが後にもっと幅広くオルタナティブな社会をめざす運動へと発展する。その微かな希望を象徴するのがキアラの切ない願いかもしれない。「生きていて。死なないで」。命を軽視する運動からは何も生まれない。赤い旅団はイタリア新左翼運動の鬼子だったのか? ベロッキオの答は…(レンタルDVD)
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BUONGIORNO, NOTTE
イタリア,2003
監督: マルコ・ベロッキオ、音楽: リカルド・ジャーニ
出演: マヤ・サンサ、イジ・ロ・カーショ、ロベルト・ヘルリッカ、ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ、ジョヴァンニ・カルカーニョ、パオロ・ブリグリア
モロ元首相が誘拐される場面も暗殺される場面もないこの映画は、ほとんど動きのない室内劇だ。その禁欲的な演出は緊張感に満ちている。アパートの一室の中に作られた狭い「部屋」に閉じ込められたモロ元首相の様子を小さな覗き窓から見つめるキアラという若い女性が主人公だ。彼女に見つめられていることも知らず、モロは家族に手紙を書いたり祈ったり黙考したりする。アパートには赤い旅団の男たちが3人、入れ替わり立ち代わり見張り役をする。その中の一人がキアラと夫婦だと偽っている。
キアラを演じたマヤ・サンサは「輝ける青春」のときよりずっと美しく、印象に残る演技をしている。彼女の目が何度もアップになるのだが、その深く黒い瞳が見るものは亡き父の幻影だ。彼女の一族はどうやらパルチザン闘争をしていたらしい。キアラはいつしかその父とモロを重ねてみるようになる。キアラはずっとモロを見つめ続ける。だが、キアラとモロの視線が合うことはない。モロは監禁グループに女性がいることすら知らないのだ。だからこの視線は一方的にキアラからモロへの「片想い」として描かれる。それゆえに切ないのだ。父を想う気持ちとモロの無事を祈る気持ちが交錯し、しかもその思いは届かない。
「輝ける青春」でも赤い旅団の女性メンバーが登場し、彼女が殺人について懐疑的な意見を呟く。この映画でもやはりキアラにモロ殺害を反対させているし、ベロッキオ監督は女性にテロリストの論理の翻意を語らせている。女性原理がテロルの世界から人を救うといいたげだ。
気になるのは、モロ元首相が監禁されていても威厳を失わず、堂々とテロリストたちと議論し、しかも説得力があるという点だ。テロリストの青い理論は理論にすらなっておらず、彼らの言う「労働者」なんていったいどこにいるのか、といいたげな脚本だ。しかし、この映画の中では語られていないが、キリスト教民主党自身がかつて左翼狩りのための偽装工作を行った陰謀の党ではなかったのか? 爆弾事件を捏造してアナキストに罪をかぶせたのではなかったのか?
左派であるベロッキオ監督は、イタリア新左翼の歴史の中で突出した赤い旅団のテロル路線に批判の目を向けつつ、決してそれを他人事のように冷ややかな目で非難していはいない。だからこそ、キアラの見る夢の幻想的な美しさや悲しさが後を引く切ない作品になったのだ。そして、最後にテロップで説明された、モロの遺族が国葬に参列しなかったということが何を物語るのだろう? 政府はモロ元首相を見殺しにした。世論を味方につけようとした首相たちに赤い旅団はまんまと利用されたのだ。彼らはますます孤立し、労働者たちから離間した。
ほとんど身動きできないようなせまい空間に閉じ込められているモロを見つめ見張る若者達もまたアパートの一室に閉じこもっているだけだ。外の世界は彼らには存在しない。テレビを通じて自分達を非難する報道に苛立つばかり。その狭苦しさはまた、赤い旅団の思想の狭隘さの現れでもある。
ただ一人外の世界でふつうに働いているのはキアラだけ。キアラは大きな公共図書館のスタッフだ。広々した閲覧室と大きな書架が奥行きをもって映ると、わたしはほっとする。彼女達が暮らす狭い空間と狭い思考とは対比的に、外の世界(図書館)は広い。知の番人たるキアラがテロリズムと殺人に懐疑的になることの下地がここにはある。そして、キアラの同僚の存在。これがまたトリックスターであることが後ほどわかる。
物語が進むにつれ、追い詰められているのはモロではなく赤い旅団の若者達のほうだということに気づく。老獪な政治家は言う。「君たちのどこに労働者がいる? 我々の党こそ労働者農民に支持されている」。これは事実だ。もともと労働争議を支援する学生たちの運動から生まれた赤い旅団が、結局は労働者の支持を得られなかったことは皮肉だ。それゆえ彼らはいっそう過激な方針へと走った。しかし、赤い旅団の中にも新しい運動の萌芽はあった。それが後にもっと幅広くオルタナティブな社会をめざす運動へと発展する。その微かな希望を象徴するのがキアラの切ない願いかもしれない。「生きていて。死なないで」。命を軽視する運動からは何も生まれない。赤い旅団はイタリア新左翼運動の鬼子だったのか? ベロッキオの答は…(レンタルDVD)
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BUONGIORNO, NOTTE
イタリア,2003
監督: マルコ・ベロッキオ、音楽: リカルド・ジャーニ
出演: マヤ・サンサ、イジ・ロ・カーショ、ロベルト・ヘルリッカ、ピエール・ジョルジョ・ベロッキオ、ジョヴァンニ・カルカーニョ、パオロ・ブリグリア