吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。

博士と狂人

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 イギリス版「舟を編む」(石井裕也監督、2013)。しかし趣は相当に異なる。かのオックスフォード大辞典の編纂過程を追ったものだが、この映画に描かれた事実をわたしはまったく知らなかった。すべてが驚異である。わたしが持っているのはオックスフォード英英辞典だったと思うが、これは1冊だけの簡易版だったのだな。よもや本家本元が発刊までに70年もかけていたとはつゆ知らず。

 さて、時は1879年、オックスフォード大学出版会が発行する大英語辞典の編集主幹に就いたジェームズ・マレーは学歴のない、しかし独学で何か国語も習得した語学の天才であった。オックスフォードのお歴々は学閥に属さないマレーに冷ややかな視線を送るが、彼の才能には一目置かざるをえない。マレーの編集方針は、単なる辞典を作るのではなく、英語の歴史をたどる壮大なものであった。そのため、シェイクスピア時代以来のあらゆる文献に書かれた英語の例文を集めてその意味の変遷をたどるという膨大な作業が必要とされた。この難事業をマレーは世界中の英語を使用する人々のボランティアによって成し遂げようとした。今でいう「集合知」である。元祖Wikipediaか、はたまた「Yahoo!知恵袋」か。この発想が素晴らしい。時代を120年も先取りしているではないか。

 そのボランティア募集に応じて1000枚ものカードを送ってきた人物がいた。それが殺人犯として精神病院に収容されているウィリアム・マイナー医師だった。マイナーは驚異的な学識を持ち、辞典の編纂に大いなる貢献をしたのだが、妄想によって罪なき男を殺してしまった殺人犯であったため、そのことが辞典編纂にとって大きなスキャンダルとなった。

 この物語は大辞典編纂過程の苦労を描くと同時に二人の狂人・天才の苦悩を描いた重厚な作品である。とりわけ、マイナーが贖罪意識にさいなまれ、自分が殺した男の妻に赦しを乞わんと苦しむ姿に鬼気迫るものがある。マレーを演じたメル・ギブソンがずいぶん渋くなっていたのには驚いた。マイナーを演じたショーン・ペンはこういうエキセントリックな役をやらせたら本骨頂なので、ほぼ「地」でやっているんじゃないか? どっちも狂人だしどっちも天才。

 マイナー博士が収監されている場所は精神科病棟に設えられた広い書斎。特別待遇である。彼の贖罪の過程が心理サスペンスのようだ。彼に夫を殺されたイライザが訪問する場面が大変緊迫感に満ちている。イライザはマイナーを許すのだろうか? しかし「赦し」は一方的になされるものではなく、赦される相手に通じなければ無意味ではないのか? もはや狂ってしまったマイナーにはそれは理解できたのか? これが新たな悲劇か。

 マレーの妻がしっかり者で、この難事業を裏で支え、夫の窮地を救おうとする大きな役目を背負っている。19世紀の妻のイメージと異なっているのは、史実なのか現代的な解釈なのかわからないが、毅然として知的な女性にはたいそう惹かれる。

 いくつものテーマが重層し絡み合う、繰り返し見たくなる見ごたえのあるドラマだ。(レンタルDVD) 

2018
THE PROFESSOR AND THE MADMAN
イギリス / アイルランド / フランス / アイスランド Color 124分
監督:P・B・シェムラン
原作:サイモン・ウィンチェスター 『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(早川書房刊)
脚本:トッド・コマーニキP・B・シェムラン
撮影:キャスパー・トゥクセン
音楽:ベアー・マクレアリー
出演:メル・ギブソンショーン・ペン、ナタリー・ドーマー、エディ・マーサンジェニファー・イーリー