レプリカントとして差別される者の悲哀が全編を覆う。ラストシーンの切なさは特筆もの。心に残るSFアクション映画がまた一つ誕生した。
前作では2019年のロサンジェルスは退廃した街だった。今作2049年ではもう退廃を通り越えて荒廃しきっている。そこに暮らすレプリカントの警官・Kが主人公。彼には製造番号しかなく、名前が与えられていない。一人暮らしのアパートのドアには心無い誰かが「人間もどき」といった蔑称を落書きしているが、彼はそれを消そうともしない。
Kがアパートに帰ると、バーチャル世界の恋人が迎えてくれる。これはレプリカントを製造販売している大企業ウォレス社の製品なのだ。等身大の超愛らしい彼女は、Kと会話を交わし、彼のために料理を作ってくれる。Kの唯一の友達であり恋人である彼女がKの心を癒す。現代の二次元キャラをさらに発展させて本物の人間そのもののように立体映像を作り上げた、究極のバーチャルリアリティの世界だ。町中にもこの製品の巨大なコマーシャル映像が流れている。前作ブレードランナーの世界観がそのまま再現されていて懐かしい。
Kの孤独な生活や仕事が淡々と描写される一方で、事件は確実に起きる。ブレードランナーとして違法レプリカントを取り締まるKは、ある日、郊外の農地で農民として暮らすレプリカントを処分した。それがきっかけで、レプリカントの大きな秘密が露になった。つまり、レプリカントが妊娠出産したという証拠品が見つかったのだ。レプリカントの大量生産をもくろむウォレス社がこのこの事実に気付いて社長が大いに興味を示す。この事実を抹殺しようとする警察と大企業との軋轢がストーリーをけん引する一方の極にあり、もう一方がKの過去の記憶(それは注入されたもののはず)と出自の秘密へと辿る謎解きだ。スリリングな展開と、見事な近未来のプロダクションデザインに目が離せない。
とはいえ、途中はかなり淡々と話が進むので、眠気にも襲われる。なにしろ163分と長い映画だから、多少の中だるみは仕方がないのか、こちらの体力がついていかないのか、どっちだろう。ハンス・ジマーの音楽も不気味なばかりで甘さがまったくないため、大音量で響かされると少々疲れてくる。
その後、2018年1月に再見。
2回目の鑑賞では、ストーリーの流れがよくわかった点がよかった。しかしその代わりにラストの切なさとか、感情移入の部分が薄れてしまったのが残念。
個人的にはやはりエルビス・プレスリーのラスベガスライブが最高。このようなホログラムが随所に登場するのが今作の見どころの一つ。エア恋人が現実の女と同期する場面などは必見だろう。
いくつか印象に残るセリフを。
「愛を守るためには時に他人になる必要がある」
確かにそうかもしれない。
「大義のために死んでこそ人間になれる」
この言葉がどれだけの死者を生んだだろう。
主人公はどうしても人間になりたかったのだろう。彼自身はそのことを言葉に出して言うことはなかったが、その切望は痛いほど伝わる。
「お前の代わりなんていくらでもいるんだ」と罵倒される労働者なら、彼の立場に感情移入するだろう。わたしたちはレプリカントなのか? 労働のためだけに生み出されたレプリカント、それはまさしく取り換えのきく労働者に過ぎない、後期資本主義に生きるわたしたちの存在と同じだ。底辺に生きる人々がレプリカントを蔑視するという状況も現実を反映していてつらいものがある。
近未来のロサンゼルスは雨が降り続き、曇り空の世界だ。現実のカリフォルニアの青い空などどこにもない。その陰鬱な世界が猥雑な東洋的世界と混然一体となる雰囲気は第1作の世界と同じ。そして、今回はいやになるほどSonyの文字が目立つ。いくら製作がSonyだからって、やりすぎでしょ。
2回目の鑑賞時もやはり音楽が非常に耳についた。これほど不愉快なBGMも珍しい。打楽器の重低音が響くくらいはまあいいとして、弦楽器の不気味なきしみが鳴り響くと不安といら立ちが募る。音楽の効果も抜群であった。
BLADE RUNNER 2049
163分、アメリカ、2017
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ、製作総指揮:リドリー・スコット、脚本:ハンプトン・ファンチャー、マイケル・グリーン、撮影:ロジャー・ディーキンス、音楽:ハンス・ジマー、ベンジャミン・ウォルフィッシュ
出演:ライアン・ゴズリング、ハリソン・フォード、アナ・デ・アルマス、ロビン・ライトショーン、ジャレッド・レトー