今年初めての劇場映画がこれって、暗すぎたような…。
1960年、中国はその名と裏腹の「大躍進」時代にあった。百家争鳴の自由な言論が赦された一時期、一転して毛沢東は「右派」を粛清し始めた(「百花斉放・百家争鳴」→「反右派闘争」)。この映画は、「右派」として断罪され、ゴビ砂漠の辺境の地で「労働改造」を強いられた知識人たちの苦難の物語。
前半はほとんどドキュメンタリーフィルムかと思えるほどに淡々と退屈な映像が続く。退屈、と書いたが、描かれていることは目を覆いたくなる(実際に、ある場面では目をしっかりつぶっていた)壮絶な飢餓だ。
チャン・イーモウの「活きる」(1994年)でもこの時代の悲劇は描かれていたが、「活きる」のようなわかりやすく情緒的な作風とはまったく異なり、乾ききった本作では悲劇の情景が棘を刺すような心の痛みを伴って「ただそこにある尊厳の破壊」として描き出される。クールな描写では、飢餓の悲惨さは伝えられるが、彼らがほとんど寝たきり状態なので、その凍てつく寒さや労働の過酷さが伝わりにくい。砂漠は美しく、その美しさと裏腹に人間はちっぽけな虫けらのように死んでいき、死体は仲間に食われる。
彼らが虫けらのように思えるのは、その住まいが地下壕の穴倉だというのも一因だ。まるで蟻の巣のように、砂漠の乾いた土の下に掘られた細長い室(むろ)。寝床は土で出来ていて、ずらりと並んだ布団に包まったまま、一人また一人と死んでいく。
大自然と人間の営みの矮小さとの落差が大きすぎて、さらに映像が語る状況も言語を絶しているため、これが政治の結果なのだ、という「悲劇性」が前面化しない。戦争による飢餓も強制収用所の飢餓も政治犯への弾圧もすべてがフラットに見えてしまう。悲劇の原因は様々であっても、現象面は同じ、ということなのだろう。いつの時代も、どんな国にあっても、人の命と尊厳を奪うのは、強制収用、強制労働、飢餓、病気…。
極限の状況にあっても人は理性を保てるだろうか。愛を貫けるだろうか。映画は後半、ようやく動きをみせて、「ドラマ」らしきものが立ち上がる。絶望の中でも未来に賭けて脱走を試みる者達がいる。彼らに未来はあるのだろうか。死に瀕した師を見捨てることのできない若者は……。
この映画が中国政府の許可を得て撮影されたものではないこと、したがって中国国内では上映できないこと、そのことだけでも、中国内の困難な状況が根本的には解決されていないことがわかる。
あまりにも淡々とした映画なので、一切の感傷を寄せ付けない。最後に朗々と謳われる悲歌「蘇武牧羊」すら「悲しい」というよりは「寒々しい」。
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夾辺溝
THE DITCH
109分、香港/フランス/ベルギー、2010
監督: ワン・ビン(王兵)、原作: ヤン・シエンホイ
出演: ルウ・イエ、ヤン・ハオユー、シュー・ツェンツー、リャン・レンジュン