吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ザ・スクエア 思いやりの聖域

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 冷汗が背中を流れそうなブラックコメディ映画。もう、見ているだけで息が苦しくなってくる。しかし、その割に長さを感じさせないのだから、優れた映画であることも確かだ。カンヌ映画祭パルムドール受賞作。
 舞台はスウェーデンの現代芸術を扱う美術館。主人公クリスティアンはチーフ・キュレーター。つまり、主任学芸員。これがまた日本の学芸員、別名雑芸員とは全然違って、スター性を帯びた有名人なのだ。バツイチで二人の娘あり。一人暮らしの高級マンションには絵が何枚もかかっていて、室内はスタイリッシュに整頓されている。このクリスティアンを演じたクレス・バングがナイスミドルで、甘い二枚目。彼を見ているだけで幸せな気分になれる。とはいえ、役柄の彼は自意識の高いエリートインテリであり、自らは倫理観の高いリベラルな人間だと思っているところが噴飯もの。その自己意識が徐々に解体され、虚飾のリベラルぶりが露呈していくさまが背筋も凍る物語だ。
 「ザ・スクエア」とは、クリスティアンが発表する次回の展示タイトルのこと。ミュージアムの地面にスクエア=正方形を描画し、「この中に入っている人は皆が平等で同じ権利を持ち、公平に扱われる。助けを求めれば、救われる権利を持つ」というもの。それは社会的格差や利己主義への批判を込めた政治的展示である。しかし、そのコンセプトを美術館の支援者に向かって説明するクリスティアン自身が実は偽善にまみれた生き方をしていることにやがて気づかされる。そのきっかけは、彼がスリにあったことである。スマホと財布を盗まれた彼は、GPSを使って犯人の居所を確かめた。そこから彼が取る行動がやがて彼自身の首を絞めていくことになる。
 まず驚くべきことは、高福祉国家のはずのスウェーデンでかくも多くの物乞いの人々が存在するということ。もはや現在の日本ではみかけることなどほとんどない物乞いが、今のスウェーデンでは珍しくないのか。驚愕のシーンであった。そして、平等社会だと日本の教科書に書かれていたはずのスウェーデンも実は格差社会であり、主人公が住む高級マンションと彼の財布を盗んだ人が住む地域との格差もまた一目瞭然だ。彼は「こちら側」に住む自分たちと、「向こう側」に住む人々との格差を認知している。そして、その問題を自覚しながら、自らは偏見にまみれていた。その苦しい思いが彼を追い詰める。
 本作に登場する人物がいちいちわたしの癇に障る。クリスティアンと一夜を共にする女もいやな女だ。クリスティアンも良いのは見た目だけで、性格はよろしくない。彼にからんでくる登場人物がみな苛立ち、怒り、扇動し、自分勝手だ。彼が主宰するイベントは寒々しい空気が張り詰め、観客もまたイライラさせられ、見ているだけで戦慄が走る。観客自身の価値観が問われ、「あなたは自分の正義を疑わないほど高潔な人間ですか」と鋭い刃とともに問い詰められているような気分になる。ほんとうに居心地が悪い。
 本作を好きか嫌いかと聞かれれば、好きとは言えないのがつらいところ。実際、つらい映画だった。でもインテリ左翼は絶対に見るべき。そして冷汗をかきましょう。

THE SQUARE
151分、スウェーデン/ドイツ/フランス/デンマーク、2017
監督:リューベン・オストルンド、製作:エリク・ヘンメンドルフほか、脚本:リューベン・オストルンド
出演:クレス・バング、エリザベス・モス、ドミニク・ウェスト、テリー・ノタリー

ニッポン国VS泉南石綿村

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 大阪府泉南地方のアスベスト被害者が国を相手に起こした訴訟の経過を追ったドキュメンタリー。4時間近い長尺だが、見てよかったと心から思える作品だった。前半のお行儀のよいドキュメンタリー映画にぼちぼち退屈し始めたころに「休憩」が入る。そして後半は暴走老人の登場により、怒涛の進撃映画に変わり、原一男映画はこうでなくちゃという展開になる。
 大阪府泉南地方は繊維産業で有名であり、また別名石綿村(いしわたむら)と呼ばれるほど、かつては石綿工場が多く操業していた。今では製造が禁止されている石綿アスベスト)だが、高度経済成長期には大量生産されていた。
 映画は、2015年4月の「泉南石綿の碑」建立式の場面から始まり、時間を遡って「クボタショック」を報じる2005年6月29日の「毎日新聞」を映し出す。クボタショックとは、クボタ尼崎工場から排出されたアスベストによって中皮腫などに罹患して亡くなった工場労働者や周辺住民への被害実態が明らかになったことを差す。この報道をきっかけにして泉南地方では市民団体が被害の実態調査に乗り出す。その代表が柚岡一禎(ゆおか・かずよし)さんであり、彼自身は患者ではなく石綿工場の経営者として財を成した人物の子孫であったが、患者の犠牲の上に成り立つ繁栄に疑問と反省を抱き、市民運動の先頭に立つ。
 泉南市阪南市に集中立地していた石綿工場の労働者や周辺住民たちは石綿に「暴露」していた。つまり、常に石綿に曝されて生活していたわけだ。石綿は鉱石の非常に細かい繊維であり、その製品は断熱材などに使われた。あまりにも細かな石綿の針のような形状により、人体に吸い込まれると肺に刺さって蓄積される。20年以上経ってから中皮腫などを発症し、不治の病として徐々に患者を苦しめ死に至らしめる。
 泉南の中小工場に勤めていた労働者やその家族が起こした訴訟は工場の経営者に対してではなく、石綿の危険性を知っていながら規制しなかった国に対する損害賠償請求訴訟として始まった。2006年に始まった訴訟の経過を原一男はずっと追い続けて8年半にわたる訴訟の記録を映画として完成させた。原一男といえば「ゆきゆきて神軍」の強烈な印象が忘れられないのだが、彼はこの訴訟の原告たちがあまりにもふつうの庶民であるために、「自分はドキュメンタリーを作るときに表現者を撮るのだと決めていたが、ふつうの人々を撮って面白いものができるのか」と自問した。結果として、この映画はとてつもなく「面白い」ものに仕上がった。この長い訴訟の過程で原一男自身が画面に登場したり原告をそそのかしたりと、動きを見せたことも一因である。何よりも、「ふつうの人々」の悲哀と悔しさと矛盾と国家への反発と迎合が見えてしまったからだ。
 映画の前半で原告たちの生活ぶりが映し出され、証言が続く。訴訟の丁寧な経過報告のようなきっちりとした記録ぶりはそれじたいが「面白い」ものではない。その過程で、原告たちの出身地が韓国・隠岐の島・沖縄といった「辺境」であることが明らかにされていく。労働者だけが患者になるわけではなく、工場主もまた石綿肺に侵されていく。赤ん坊だった岡田陽子さんは母親が石綿工場で働いていて、母が作業している横で寝かされていたという。5歳まで工場に一緒に連れていかれた彼女は二十代後半で石綿肺を発症した。このような「家族暴露」「近隣暴露」の患者もまた原告となった。
 そして大阪地裁判決で勝利した患者たちは大喜びするが、一方で家族暴露や近隣暴露の患者たちは救済の対象外とされた。さらに政府は判決を不服として控訴する。そのときの政権与党は民主党だった。弁護団副団長の「民主党、だめだなぁ…!」という残念きわまりないという呟きが観客の心に突き刺さる。そうだ、そうだったんだ。民主党政権だったのに、控訴したのか。そんなことをしていたから国民から見放されたんじゃないのか、と今更ながら残念でならない。
 映画は後半になって柚岡さんの直接行動が始まり、厚生労働省への突撃を敢行する場面で緊張が高まる。この柚岡禎一という人物が実に興味深く、この人の聡明さと頑固さと猪突猛進ぶりと、それでもやっぱり引き下がってしまう妥協精神と、その揺れ動くさまをカメラがきっちりと追い続けていくから、画面から目を離せなくなる。どこかユーモアと悲哀をたたえた老闘士の姿が印象深い。
 そして、厚生労働省での交渉の場面がまた出色であり、わたしは原告団の前に姿をさらしている若手官僚がかわいそうになってきた。彼は原告団に突き上げられ、上司にはおそらく「さっさと原告を追い返せ」と怒鳴られているのだろう。間に立った彼には自分の言葉というものがない。上司に言われたことをそのままおうむ返しに告げるのみだ。それが官僚の仕事だしそれを選んだ本人の責任だとは思うが、しかしこんな仕事も実にたまらない。 
 映画の最後のほうで、原告団共同代表の佐藤美代子さんがマイクを片手に涙ながらに訴える言葉をカメラは延々と写し続ける。このとき、原一男はきっと佐藤さんに共鳴しているのだろう。だから編集でカットせずに延々と流し続ける。そしてさらに、彼女は厚生労働大臣が謝罪にやってきたとき、大臣の後姿を追いかけ追いすがって、「ありがとうございました」と何度も頭を下げる。その姿をやはりカメラは追い続ける。この時、原一男は彼女への無言の批判を投げかけているのだろう。なぜ大臣が頭を下げたら感激してしまうのか。大臣は今更頭を下げるぐらいなら、もっと前に裁判をやめて和解すべきだったのだ。そんな相手になぜ「ありがとうございます」と言わねばならないのか。原一男が撮った「ふつうの人々」の姿がここにあった。「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三なら絶対にしないことを「ふつうの主婦」はする。佐藤さんは共同代表として裁判闘争を闘い続けた。ほんとうによく頑張ったと思う。そして悔しい思いをたくさんたくさん抱えた。だからこそ/それなのに…。
 このドキュメンタリーは、原告団弁護団との厳しい対立もそのまま映し出したし、原告のさまざまな思いも正直に写した。だからこそ、表層的な記録に留まらない、見る者の価値観や感情を揺さぶる作品になった。原一男自身の葛藤や共感や反感や敬意や感動が正直に投影されているからだろう、わたしもまた共感と疑問の間を揺れ、そして感動した。一人でも多くの人に劇場で見てほしい。 

215分、日本、2017
監督・撮影:原一男、製作・構成:小林佐智子、音楽:柳下美恵、イラストレーション:南奈央子

ウィンストン・チャーチル

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 メリル・ストリープサッチャー首相もすごかったが、ゲイリー・オールドマンチャーチルには戦慄を覚える。流石はアカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞しただけのことはある、驚くばかりの変貌ぶり。声もずいぶん落として低く響く声、老人の声でしゃべっている。なりきりぶりもすさまじい。

 イギリス議会のセットが大変細かいところまで再現されていて、美術の素晴らしさにも感嘆した。マイクなしで演説するから広すぎる議場だと声が通らないとは思うが、それにしても議場があんなに狭かったとは意外だ。そして撮影、特に照明が力を発揮していて、議場内に差し込む外光の美しさは絵画のようだ。舞い散る埃までが輝く。

 戦場場面がまったく登場しない戦時下を描く映画だけに素材は地味だから、映画的な面白さを狙った演出が随所に見られて、それはそれでよかったのだが、地下鉄で乗客たちが戦争遂行に一糸乱れず賛成するなどというフィクションを入れたのはちとやりすぎかもしれない。全体にいい感じで進むなぁと思って見ていたのだが、チャーチルダンケルクの40万人を救うためにカレーの部隊を玉砕させる場面では、どうしても許せない思いが先だった。たとえやむを得ない判断だったとしても、チャーチルがその決断を大いに悔いて悩むといった場面を入れてくれればせめて救われたのに、と思う。歴史にもしもはないのだが、あの時点でイギリスがドイツに降伏していたらどうなっていただろうか。ダンケルクの40万人を救うために降伏していたら、ナチスの暴走を一層強めただろうか?
 嫌われ者のチャーチルを愛すべき老人として描き、彼の妻との微笑ましい会話や、国王ジョージ6世との漫才のようなやりとりも面白く、その点は評価したいが、この映画は観終わった後の感慨がよろしくない。すっきりしないのだ。政治とはそういうものかもしれない。すっきりさわやかに割り切れるぐらいなら誰も苦労しないのだろう。邦題も気に入らない要因かな、「ヒトラーから世界を救った男」という仰々しさが。世界を救うのは一人の政治家や一人の英雄ではなかろうに、というのがわたしの持論だからね。リーダーが力を発揮できるのは周囲が偉いからなんであって、リーダーの暴走を止められないのも周囲が悪い。その「周囲」とは誰であろう、どんなシステムなのだろう。考えさせられることがいくつもある映画だ。そういう意味では優れた映画だし、ぜひ大勢の人に見てほしい。

DARKEST HOUR

125分、イギリス、2017

監督: ジョー・ライト、製作: ティム・ビーヴァンほか、脚本: アンソニー・マクカーテン、音楽:ダリオ・マリアネッリ

出演: ゲイリー・オールドマンクリスティン・スコット・トーマスリリー・ジェームズスティーヴン・ディレイン、ロナルド・ピックアップ、ベン・メンデルソーン

 

外泊

 2007年6月30日に始まった、ホームエバー・ハイパーマーケット労働争議を追ったドキュメンタリー。
解雇通告を受けた500名の女性パート労働者がスーパーのレジを占拠し、泊まり込みをするという、「結婚して以来初めての外泊が労働争議」という女性たちの闘いを活写する。
 カメラが被写体に大変近いので、どうやって撮ったのかと不思議になるほどだ。警察にごぼう抜きにされるところも接写している。労働運動のドキュメンタリーを撮り続けていたキム・ミレ監督が新たな素材を探しているときに、レジ占拠の噂を聞きつけて一緒に泊まり込みにいったのが、巻頭の場面である(『外泊外伝』現代企画室, 2011の「訳者あとがき」による)。だから本作は闘争の最初から最後までずっと労働者たちに寄り添い続けている。


 この争議についてはドラマ「明日へ」が作られた。ドラマは主人公が決まっているけれど、「外泊」の方は誰か一人にフォーカスすることのない群像劇になっている。

 支援する労組との関係がいまいちわかりにくく、さらにその支援労組である民主労総が分裂するという事態になり、さらには政党の支持も得るが、これまた分裂するというわけのわからないことにもなるので、背景の解説がないと理解に苦しむ。そもそもなぜ職場占拠・籠城という手段に出たのか、その結論が出る過程がよくわからない。もともと彼女たちは労組員だったのかどうかもわからない。


 支援労組の大会で組合幹部が女性たちのことを「おばさん」と呼んでいる場面にわたしはカチンときたが、会場に座っていた女性の一人が立ち上がって幹部を批判し、「おばさんと呼ぶとは失礼だ。ハイパーマーケットの組合員たちに謝罪してほしい」と怒っていたのですかっとした。


 争議そのものは幹部の解雇という犠牲を生み、決して全面的勝利に終わったわけではないが、最後まで闘った女性たちの思いに涙した。
 気になったことは、「早く争議を解決して、良き妻、良き母に戻りたい」と訴える女性の姿。こういう思考を変革できない限り、女性の地位向上はない。夫も「もう皿洗いや掃除はこりごりだ。早く妻を家に戻してくれ」と争議応援のつもりで語っているところに違和感を覚える。(DVD)

韓国
2009
73分
監督:キム・ミレ

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

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 時は1967年。ベトナム戦争でアメリカの敗戦は必至と見られる報告書がロバート・マクナマラ国防長官に届けられた。しかし、彼はその事実を隠す。それから4年後、その文書の存在がニューヨーク・タイムズによってすっぱ抜かれた。これがのちにペンタゴンペーパーズと呼ばれるようになる、ベトナム戦争に関する米軍の不都合な真実が記された4000ページにも及ぶ記録文書である。1971年にはすでにベトナム戦争は泥沼状態にあり、アメリカ国内では反戦運動が盛り上がっていた。日本でもベ平連の活動が活発に続いていた時期である。
 当時のニクソン政権は直ちにニューヨークタイムズ紙の記事掲載差し止め命令を連邦裁判所に要求した。そして、タイムズは差し止め命令を受けてしまう。その時、タイムズ紙に遅れながらも文書全文を入手したワシントンポスト社では、内容を公開するかどうかを巡って社内で大論争となった。ニューヨークタイムズは全国紙であり、ワシントン・ポストは家族経営の地方紙である。しかも高級紙の中で唯一社主が女性という新聞社であった。時あたかも家族経営を脱して株式公開したばかりのワシントン・ポストにとって、文書の報道は会社をつぶしてしまいかねない大問題である。

 本作は、多くの関係者が存在するこのペンタゴンペーパーズ事件を、ワシントンポストのキャサリン・グラハム社主と編集主幹ベン・ブラッドリーの二人に焦点を当てて描いた。女性脚本家リズ・ハンナの脚本は、キャサリン・グラハムという一人の「か弱い」女性が人生をかけた大きな決断を迫られる様子を実に緻密に描いている。

 古参経営陣はキャサリンをオーナーの娘として尊重しつつも、彼女の経営手腕を素人と見下している。いっぽうベン・ブラッドリー編集主幹は強硬に文書の公開をキャサリンに迫る。経営者とジャーナリストの闘いが社内で起きているのである。手に汗握る緊張が高まる様子を、当時の女性が置かれた立場をさりげなくそして厳しく描き出した非常に優れた脚本だ。圧倒的な男性社会であるジャーナリズム界において、自ら「主婦」の立場を貫いていたキャサリンが、夫の自殺によって図らずも社主の立場にたち、動揺しながらも経営者として成長していく様に胸すく思いがする。 
 そして、新聞は記者だけが作るのではない。世紀のスクープを印刷するのかどうか、ギリギリの決断を待っている印刷工たちの仕事もまた夜を徹して必死の面持ちで続けられている。タイプが打たれ、植字工が活字を拾って組版を作り、輪転機が回る工程は、古い機械が大好きなわたしにとっては萌えツボ。鳥肌が立つほど感動した。
 ワシントン・ポストのオフィスを映し出すカメラの動きも奥行きがあってとてもよい。全体的にカメラが高い位置に置かれていることが多くて、ダイナミックな感じを出すことに腐心しているようだ。メリル・ストリープの衣装もまた懐かしい。特に彼女がホームパーティで来ていたゆったりしたガウンのような白いドレスが上品かつゴージャスでよかった。中高年体形のカバーにもよいね。
 音楽もよかった。ジョン・ウィリアムスらしい重厚な音楽。2度繰り返されるベン・ブラッドリーのセリフが耳に残る。「報道の自由を守るのか報道しかない」
 彼らが権力と対峙したと同時に、時の権力者と非常に近い立場にあったことも驚きだ。ジャーナリストが大統領やその側近と異様に親しいというのも大問題ではなかろうか。 
 この映画を観て思い出したのは「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」(2003)だ。「ペンタゴンペーパーズ」を観た後にマクナマラのインタビューを観れば、また見え方が違ってくるだろう。今こそ見直してみたい映像だ。

THE POST
116分、アメリカ、2017
監督:スティーヴン・スピルバーグ
製作:エイミー・パスカルスティーヴン・スピルバーグ、クリスティ・マコスコ・クリーガー、脚本:リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー、撮影:ヤヌス・カミンスキー、音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:メリル・ストリープトム・ハンクスサラ・ポールソン、ボブ・オデンカーク、ブルース・グリーンウッド、マシュー・リス

15時17分、パリ行き

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 これは事件が起きてからさほど時間がたっていないため、ほとんど何の説明もなくても観客がすぐに「ああ、あれね」とわかるというところが得している作品だ。

 2015年にヨーロッパで起きた実際のテロ事件をそのまま再現する映画であり、ほんとうに「そのまま」再現してしまったところが仰天もの。なぜなら、そのテロ事件が大虐殺になるのを未然に防いだアメリカ人の若者3人は本人が演じ、ほかにも身を挺してテロ犯人と格闘した乗客も本人が演じているからだ。登場人物を本人が演じるという作品は決して本作が初めてではない。タノヴィッチ監督の「鉄くず拾いの物語」も本人に演じさせた再現ものだが、「鉄くず」の本人演技が見ていられないほど下手だったのに比べて、こちらの「15時17分」はみな演技が上手いのに感心した。よく素人にこれだけ演技をつけたものだ、さすがはイーストウッド監督。
 ところが、映画のことをテロ事件を再現するサスペンスだと思い込んで見始めたわたしは、全然そうではないことに気づいて落ち着かなくなる。物語はテロを未然に防いだ三人の小学生時代にまでさかのぼり、彼らが知り合うようになったきっかけや、ヨーロッパ旅行に出かける過程を描いていく。ついには途中からローマ観光映画に変わってしまったので、「おやおや、どうなってんのこれ」と心配になるやら脱力するやら。観光客が鈴なりになっているトレヴィの泉で後ろ向きにコインを投げ入れるという定番のパフォーマンスを演じる若者たちに失笑を禁じ得ない。
 学校では問題児扱いされ、落ちこぼれと教師に言われ、シングルマザーだった母親によって転校させられた先の学校でもやっぱり校長室に呼び出される毎日。という三人の少年たちが大好きだった遊びは戦争ごっこ。そうよね、男の子は戦争ごっこが大好き。サバイバルゲームに精出す3人はいつしか離れ離れに進学・引っ越ししていく。そして7年ぶりの再会がヨーロッパ旅行だったのだ。
 テロ事件が起きたその時、テロリストの銃口がまっすぐ自分に向かっているのもものともせず突進していったスペンサー青年は、人を助けたい、人の役に立ちたいと思い続けて落ちこぼれていた空軍の救急救命士。彼がそんな思いに突き動かされた理由をイーストウッドはじっくりと描いたのだ。そして、ヨーロッパ旅行で遊び惚ける若者三人の姿を退屈ともいえるほどゆるゆると映し続けた。この演出には賛否両論が出そうだが、まったく緊張感のないだらけたシーンが続くため、このあたりで爆睡する観客も続出しそうだ。わたしは珍しくまったく眠らなかったのだがね。
 この映画を見れば、偶然が英雄を生むことがよくわかる。もしも彼らがあの時、三人そろってヨーロッパ旅行に出かけなかったら? 15:17発の列車に乗らなかったら? あの車両じゃなかったら? すべてが驚くべき偶然の積み重ねなのだ。しかし、それが偶然ではなく必然であったことをイーストウッドは描きたかったのだろう。だからこそ、延々と彼ら三人の生い立ちを追ったのだ。
 しかし、ものの見事に犯人の描写は割愛されている。そもそもISの戦士なのかどうかさえわからない。犯人側の生い立ちは何も語られないために、一方的な英雄譚となっている危惧がある。劇場パンフレットではそのあたりが詳しく解説されていて、理解が進んだ。
 ラストは実写記録映像が使われている。もちろん当事者本人が出ているわけで、本人が演じている意味がここにあるのか、と膝を打った。オランド大統領との記念撮影とか、実に自然に観ることができて、感動的だった。それにしても愛国的な映画ですな。

THE 15:17 TO PARIS
94分、アメリカ、2018
製作・監督:クリント・イーストウッド、原作:アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン、ジェフリー・E・スターン、脚本:ドロシー・ブリスカル、音楽:クリスチャン・ジェイコブ
出演:アンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーン、ジェナ・フィッシャー、ジュディ・グリア、レイ・コラサーニ

 

グレイテスト・ショーマン

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 巻頭からの派手なショーは、「ラ・ラ・ランド」と同じ作風(作詞・作曲は同じでも監督は違うのにね)。まあ、ここは定番のつかみの部分でしょう。
 時代はぐっと遡って1800年代。実在したアメリカのショービジネス界の草分けと言われているP・T・バーナムの半生記である。わたしはバーナムのことを全く知らなかったので、本作は大変興味深かった。おそらく実際のバーナムよりもかなり美化されているであろうヒュー・ジャックマン演じる主人公は、上昇志向に取りつかれたギラギラ男であり、山師で、かつ家族愛に満ちている複雑な人物だ。
 バーナムは世界で初めてサーカスという出し物を考え付いたアイデアマンであり、つねに新奇なショーを出し続けたイマジネーションの人であったという。と同時に彼のやりかたが合法・非合法のすれすれであり、というよりむしろ非合法でもなんとかすり抜けられるギリギリのところを歩んでいたことがわかる。結果オーライのこの才覚は素晴らしいともいえる。成功する人間というのはこういうものかもしれない。
 本作の演出は時代考証を無視した現代風のもので、そこが面白い。だからこそ、つかみの部分からぐっと映画の観客を作品の中に引きずり込む力があるのだ。シルクドソレイユのような芸術的なロープ演技やロックのリズムで奏でる歌と群舞、これがとても19世紀に存在したとは思えないから、現代の観客向けのサービスなのである。

 100分弱に刈り込んだ物語は編集が無駄なく時間をつないで素晴らしい。現代風にお話はサクサクと進み、わかりやすい物語はエンタメ作として上等だ。レベッカ・ファーガソン以外の役者がみな自分で歌って踊っているところも素晴らしく、ヒュー・ジャックマンがなんでもこなせるマルチタレントであったことに改めて感動した。
 この作品のセンシティブな部分は、フリークスを題材にしていること。ここが評価の分かれ目であろう。そもそもバーナムはフリークスと呼ばれる異形の人々を見世物としか思っていなかった。これは時代の制限もあってやむを得ないのかもしれないが、映画ではそこをうまく美化して、バーナムがフリークスを利用したことをすり替え、当事者の口から「あなたは私たちに生きる場所を与えてくれた」(大意)と賛歌を贈らせている。これはある意味事実だろう。ただ、どうしても釈然としないものが残る。
 とはいえ、この作品をわたしは大いに楽しんだ。権威にすがり、イギリス女王ヴィクトリアとの謁見に欣喜雀躍する俗物バーナムが、上流階級に取り入りたくてたまらない、その気持ちもとてもよく理解できた。それだけに、彼にとってはすべての人が彼の成功のための利用物・出し物に過ぎなかった、という点が事実をありのままに描いているとはいえ、冷水を浴びせられるような気持になる。そのマイナス面も含めてこの作品は考えさせられ、そしてエンターテインメントを楽しむことができた。 
 ミシェル・ウィリアムズがずいぶん老けていたのは驚いたが、その分落ち着きのある中年女性へと成長しているさまがよくわかり、好感度がますます増した。彼女はほんとうにうまい役者だ。 

THE GREATEST SHOWMAN
104分、アメリカ、2017
監督:マイケル・グレイシー、製作:ローレンス・マーク、製作総指揮:ジェームズ・マンゴールド、脚本:ジェニー・ビックス、ビル・コンドン、撮影:シーマス・マッガーヴェイ、音楽:ジョン・デブニー、ジョセフ・トラパニーズ、楽曲:ベンジ・パセック、ジャスティン・ポール
出演:ヒュー・ジャックマンザック・エフロンミシェル・ウィリアムズレベッカ・ファーガソンゼンデイヤ、キアラ・セトル、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世