吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ニッポン国VS泉南石綿村

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 大阪府泉南地方のアスベスト被害者が国を相手に起こした訴訟の経過を追ったドキュメンタリー。4時間近い長尺だが、見てよかったと心から思える作品だった。前半のお行儀のよいドキュメンタリー映画にぼちぼち退屈し始めたころに「休憩」が入る。そして後半は暴走老人の登場により、怒涛の進撃映画に変わり、原一男映画はこうでなくちゃという展開になる。
 大阪府泉南地方は繊維産業で有名であり、また別名石綿村(いしわたむら)と呼ばれるほど、かつては石綿工場が多く操業していた。今では製造が禁止されている石綿アスベスト)だが、高度経済成長期には大量生産されていた。
 映画は、2015年4月の「泉南石綿の碑」建立式の場面から始まり、時間を遡って「クボタショック」を報じる2005年6月29日の「毎日新聞」を映し出す。クボタショックとは、クボタ尼崎工場から排出されたアスベストによって中皮腫などに罹患して亡くなった工場労働者や周辺住民への被害実態が明らかになったことを差す。この報道をきっかけにして泉南地方では市民団体が被害の実態調査に乗り出す。その代表が柚岡一禎(ゆおか・かずよし)さんであり、彼自身は患者ではなく石綿工場の経営者として財を成した人物の子孫であったが、患者の犠牲の上に成り立つ繁栄に疑問と反省を抱き、市民運動の先頭に立つ。
 泉南市阪南市に集中立地していた石綿工場の労働者や周辺住民たちは石綿に「暴露」していた。つまり、常に石綿に曝されて生活していたわけだ。石綿は鉱石の非常に細かい繊維であり、その製品は断熱材などに使われた。あまりにも細かな石綿の針のような形状により、人体に吸い込まれると肺に刺さって蓄積される。20年以上経ってから中皮腫などを発症し、不治の病として徐々に患者を苦しめ死に至らしめる。
 泉南の中小工場に勤めていた労働者やその家族が起こした訴訟は工場の経営者に対してではなく、石綿の危険性を知っていながら規制しなかった国に対する損害賠償請求訴訟として始まった。2006年に始まった訴訟の経過を原一男はずっと追い続けて8年半にわたる訴訟の記録を映画として完成させた。原一男といえば「ゆきゆきて神軍」の強烈な印象が忘れられないのだが、彼はこの訴訟の原告たちがあまりにもふつうの庶民であるために、「自分はドキュメンタリーを作るときに表現者を撮るのだと決めていたが、ふつうの人々を撮って面白いものができるのか」と自問した。結果として、この映画はとてつもなく「面白い」ものに仕上がった。この長い訴訟の過程で原一男自身が画面に登場したり原告をそそのかしたりと、動きを見せたことも一因である。何よりも、「ふつうの人々」の悲哀と悔しさと矛盾と国家への反発と迎合が見えてしまったからだ。
 映画の前半で原告たちの生活ぶりが映し出され、証言が続く。訴訟の丁寧な経過報告のようなきっちりとした記録ぶりはそれじたいが「面白い」ものではない。その過程で、原告たちの出身地が韓国・隠岐の島・沖縄といった「辺境」であることが明らかにされていく。労働者だけが患者になるわけではなく、工場主もまた石綿肺に侵されていく。赤ん坊だった岡田陽子さんは母親が石綿工場で働いていて、母が作業している横で寝かされていたという。5歳まで工場に一緒に連れていかれた彼女は二十代後半で石綿肺を発症した。このような「家族暴露」「近隣暴露」の患者もまた原告となった。
 そして大阪地裁判決で勝利した患者たちは大喜びするが、一方で家族暴露や近隣暴露の患者たちは救済の対象外とされた。さらに政府は判決を不服として控訴する。そのときの政権与党は民主党だった。弁護団副団長の「民主党、だめだなぁ…!」という残念きわまりないという呟きが観客の心に突き刺さる。そうだ、そうだったんだ。民主党政権だったのに、控訴したのか。そんなことをしていたから国民から見放されたんじゃないのか、と今更ながら残念でならない。
 映画は後半になって柚岡さんの直接行動が始まり、厚生労働省への突撃を敢行する場面で緊張が高まる。この柚岡禎一という人物が実に興味深く、この人の聡明さと頑固さと猪突猛進ぶりと、それでもやっぱり引き下がってしまう妥協精神と、その揺れ動くさまをカメラがきっちりと追い続けていくから、画面から目を離せなくなる。どこかユーモアと悲哀をたたえた老闘士の姿が印象深い。
 そして、厚生労働省での交渉の場面がまた出色であり、わたしは原告団の前に姿をさらしている若手官僚がかわいそうになってきた。彼は原告団に突き上げられ、上司にはおそらく「さっさと原告を追い返せ」と怒鳴られているのだろう。間に立った彼には自分の言葉というものがない。上司に言われたことをそのままおうむ返しに告げるのみだ。それが官僚の仕事だしそれを選んだ本人の責任だとは思うが、しかしこんな仕事も実にたまらない。 
 映画の最後のほうで、原告団共同代表の佐藤美代子さんがマイクを片手に涙ながらに訴える言葉をカメラは延々と写し続ける。このとき、原一男はきっと佐藤さんに共鳴しているのだろう。だから編集でカットせずに延々と流し続ける。そしてさらに、彼女は厚生労働大臣が謝罪にやってきたとき、大臣の後姿を追いかけ追いすがって、「ありがとうございました」と何度も頭を下げる。その姿をやはりカメラは追い続ける。この時、原一男は彼女への無言の批判を投げかけているのだろう。なぜ大臣が頭を下げたら感激してしまうのか。大臣は今更頭を下げるぐらいなら、もっと前に裁判をやめて和解すべきだったのだ。そんな相手になぜ「ありがとうございます」と言わねばならないのか。原一男が撮った「ふつうの人々」の姿がここにあった。「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三なら絶対にしないことを「ふつうの主婦」はする。佐藤さんは共同代表として裁判闘争を闘い続けた。ほんとうによく頑張ったと思う。そして悔しい思いをたくさんたくさん抱えた。だからこそ/それなのに…。
 このドキュメンタリーは、原告団弁護団との厳しい対立もそのまま映し出したし、原告のさまざまな思いも正直に写した。だからこそ、表層的な記録に留まらない、見る者の価値観や感情を揺さぶる作品になった。原一男自身の葛藤や共感や反感や敬意や感動が正直に投影されているからだろう、わたしもまた共感と疑問の間を揺れ、そして感動した。一人でも多くの人に劇場で見てほしい。 

215分、日本、2017
監督・撮影:原一男、製作・構成:小林佐智子、音楽:柳下美恵、イラストレーション:南奈央子