吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

サウルの息子

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 予想通りというべきか、途中何度も睡魔と闘い続けた2時間。恐ろしく退屈で恐ろしく負荷のかかる映画。と当時にナチス強制収容所とは何であったのかを考えさせる、新たな視角を与えてくれる作品だ。

 強制収容所の中では、一部のユダヤ人が監視役と雑用係として登用されていた。その「ゾンダーコマンダー」と呼ばれる一人がサウルである。彼はガス室で殺害された死体を淡々と片づける。この映画はほぼ正方形の狭い画面の上に極端な接写によって、サウルただ一人を映し出し、サウルただ一人に寄り添う。サウル以外の人々は後景にぼんやりと映るだけで、画面は常に彼の表情のアップか、彼の後姿を追う。サウルに寄り添うと書いたが、実は寄り添ってなんかいなくて、サウルの無表情をアップにすることによって、映画はサウルそのものを相対化し、彼の悲しみも怒りもすべてを淡々と映し出し、かつ、それゆえに、サウルが陥っている状況の極限を切り取っていく。

 このような極端な接写はダルデンヌ兄弟の「息子のまなざし」を思い出させる。あの映画も寡黙ながら、極端な緊張感が漂う作品だった。この「サウルの息子」も、同じく息子を亡くした父親の話であると同時に、その怒りや悲しみをどこにぶつけていいのか、判断力をなくしている父を描いた点でも共通している。とはいえ、一方は犯罪によって息子を亡くした父。一方は戦争によって息子を亡くした父、という構造の違いは大きいかもしれない。

 サウルはある日、ガス室から運び出された死体の中に、死にきれなくて生死の境をさまよう少年を見た。それは彼の息子であったが、ほどなく息子は医者の手によって殺される。そのままならば解剖されてしまう息子の遺体を密かに運び出したサウルは、収容所の中にラビがいないかと探し始める。ラビを見つけて息子を埋葬したい。それだけがサウルの強い願いだった。ガス室で殺された死体はすべて焼却されて灰は川に廃棄される。ユダヤ教の教えでは、火葬は許されないのだ。サウルは息子が焼却されないようになんとかして遺体を運びだし、武装蜂起の隙をついて逃げ出そうとするのだが、、、


 この映画は2015年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞したが、日本での公開は一年遅れた。しかも、ほとんど宣伝もされていない。それは仕方がないのかもしれない、ほんとうに地味な作品なのだ。ほとんどセリフもなく、極端な接写によって虐殺の場面もぼかされている。それは監督にとっては観客への配慮かもしれないが、わたしはサウル自身の心象風景を描いたものと解釈した。彼の視界の中には間違いなく大量の全裸死体があり、血と汚物にまみれた虐殺後のガス室があるのだが、それは<見えていない>。もはや感情を失ったサウルには、目の前の同朋の死体も機械的に処理すべきモノでしかない。幼い息子の死すら、彼には感情を動かされるものではない。

 そのような極端に「人間性を失った」強制収容所の中で、なおもユダヤ教徒としての埋葬にこだわるサウルには、どのような光景が眼前に広がっていたのだろうか。武装蜂起すらアクションシーンとしての緊迫感もなく、サウルにとってはただ息子の死体を運び出せるチャンスとしてしか映っていないように見える。サウルにとってはすべてが夢の中の世界だったのではなかろうか。そう思うことなしには彼の精神は持たなかったのであろう。人が人でなくなるところ。人が人として生きることを許されないところ。それがナチス絶滅収容所であった。

 あまりにも無表情だったサウルが、最後に微笑みを見せる。それは観客にとってほっとできる唯一の場面だ。しかし、その微笑みも空しい。ナチスの虐殺には、神もつかの間の安らぎも存在しなかった。

SAUL FIA
107分、ハンガリー、2015 
監督・脚本: ネメシュ・ラースロー、製作: ライナ・ガーボル、シポシュ・ガーボル、脚本: クララ・ロワイエ、撮影: エルデーイ・マーチャーシュ、音楽: メリシュ・ラースロー
出演: ルーリグ・ゲーザ、モルナール・レヴェンテ、ユルス・レチン、トッド・シャルモン、ジョーテール・シャーンドル