吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

草原の実験

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 これは劇場の大スクリーンで見るべき映画であって、自宅のテレビモニターで見るなんて許されない。ましてや、わたしみたいにiPadで見たなんていうのはもうとんでもない話! いやー、これは本当に大きなスクリーンでみたかったわ。
 そもそも、この映画はセリフが一切ない。それは、登場人物たちがしゃべれないとか無口とかそういう問題ではなく、セリフなしで描こうとした実験映画なのだ。映画そのものが実験であり、また映画のテーマが「実験」である。セリフがないということはあまりにも静かな画面が続くわけで、ほとんどの観客が10分以内に爆睡するのではないかと思われるが、どっこいこれがとんでもない。主人公が超超超美少女なので、彼女の顔を見ていたいためだけに起きている観客が一億人ぐらいいそうだ。
 さらに、あまりにも何の説明もないしセリフもないから、見ているうちにだんだん不安になってくるし、そろそろ当方が爆睡態勢になりかかったときに突然の雷鳴が響いて草原に落雷したり怪しげな人が現れたりと、いろいろとラストシーンの衝撃に向けての下ごしらえが進むために、片時も目を離せなくなる。
 旧ソ連の大平原を舞台にした「実験」映画という情報だけで、分かる人には何の実験かすぐにわかる。だからラストシーンも当然予想できるのだけれど、そうはいっても、やはり衝撃には違いない。
 まったくセリフがなく、何が起きているのかもよくわからないけれど、平和で淡々とした日常に突然不穏な出来事が起きてくる様子は観客にも伝わる。そして、ずっとずっとなにも説明がなくて放置プレイされている感が強い観客にとって、ラストシーンのカタルシスは半端ない感動を呼ぶ。このワンシーンのためにこの映画はここまで我慢を観客に強いてきたのだ。
 翻って、巻頭のシーンから思い出してみよう。ソ連のとある地方の(といっても何も説明がない)大平原が画面に映し出される。地球は丸いということが実感的に分かるような場面だ。日本に住んでいたら誰もこんな風景は見たことがないだろう。そんな、どこにも何もなく、ただただ草原が広がっているだけの広大な土地に、たった一軒ポツンと建つ家がある。ここに住む少女とその父親(たぶん)が主人公だが、そもそもこの二人が父娘なのかどうかもあやしい。なんであんな父親からこんな超絶美少女が生まれてくるんだ? ありえんやろ。遺伝子操作したっていう実験映画なんか、これは。と言いたくなる。そして、父親の仕事がなんなのかもよくわからないまま、二人は毎日毎日同じ行為を繰り返す。それは、大草原の中をトラックを走らせ、父はどこかへ出かけ、娘は馬に乗った少年に拾われて帰宅する、というたったそれだけのことだ。
 この映画の見どころはなんといってもヒロインのエレーナ・アンである。奇跡のような美少女だから、彼女を見ているだけで観客は爆睡の魔の手から救われる。そして、その美少女をめぐる少年(青年)二人の恋の争い。これもまたセリフがないために、美少女がどちらの男に惹かれているのかよくわからない。二人の男が一方は白人であり、一人がアジア系であるところがなんらかのメタファーになっているようだ。 
 ラストシーンまですべて見終わったあとに思い起こすのは、「似たような映画を見たなぁ」という感慨だ。既視感が強いとはいえ、やはりラストシーンの衝撃が待ち受けるそこまでのシーンの美しさに見惚れてしまったわたしのような観客には、この作品がオリジナリティを持つメッセージ性の強い映画であったことに納得する。返す返すも劇場で見なかったことを後悔する。ただし、映像が美しいといってもこの映画にはタルコフスキー作品のような計算されつくした構成美は感じられない。ありのままの自然の雄大さを畏敬の念をもって切り取った謙虚な美しさが、わたしたちに差し出されている。(
U-NEXT)

ISPYTANIE
97分、ロシア、2014
監督・脚本:アレクサンドル・コット、音楽:アレクセイ・アイギ
出演:エレーナ・アン、ダニーラ・ラッソマーヒン、カリーム・パカチャコフ