誰にでも経験のある、恋の始まりと終わりの物語。しかしこれが共感を生むかどうかは観客の境遇による。この映画のパターンはノン・インテリ層のそれだ。だから、映画のプロモーターが惹句する「愛を知る誰もが経験のある、しかし誰も観たことのないラブストーリー」という言葉に知的な人々は共鳴できないだろう。
映画は一組の子持ち夫婦の現在と過去を描く。現在の彼らは決して豊かとは言えない暮らしをしていて、病院勤めの妻のシンディが経済も子育ても支えており、生活に疲れた表情をしている。夫のディーンはまともな職に就いていないようであり、しかし妻を愛しているので、生活に疲れている彼女をなんとか気分転換のレジャーに連れ出したいと思っている。
そんな「現在」の一日と、過去の二人の輝いていた恋の日々が並行して描かれる。恋の始まりと終りが並行して描かれるだけに、その落差が悲しい。
カメラはほとんどが手持ちで、ドキュメンタリータッチのリアリズムを狙う。確かに、どこにでもいる若者たちのはしゃぎぶりで、同時にどこにでもいる中年に差し掛かる時期の夫婦の倦怠で、それらが同時に現前するために、観客はそのどこにでもある普通の恋の凋落ぶりに心をかきむしられるかもしれない。
思うに、結婚生活そのものは恋の終わりではなく、離婚がましてや恋の終わりではなかろう。恋というのがある脱日常、あるいは非日常の祝祭を指し示す言葉ならば、そんなものは最初からどこにも存在しない。わたしたちには日常と非日常の区別などあるのだろうか。この映画は一つの恋の始まりと終わりを同時に描くものだと解釈するのがふつうの見方なのだろうけれど、わたしにはそうは思えない。結婚すれば恋は終わるのだろうか。灼熱の恋の日々は終わって、あとは退屈な日常が延々と待っているだけなのだろうか。退屈な結婚生活の日常はしかし退屈さと引き換えに安心と安定を与えてくれる。二人は恋という夏の日の花火を手放したあとも、愛という名の熟成したモルトの香り立つ日々を迎える――。本当に?
この映画に登場する一組のカップルには他者との葛藤や対立-止揚という知的な緊張感が存在しない。これは不思議なことだ。実は彼らはただ単純に恋の日々を謳歌していたわけではなく、結婚前には複雑な出来事があり、その困難を乗り越えて結婚したのであった。だから、彼らの結婚生活にはある秘密と緊張が常に存在していた。その困難を乗り越えて永遠の愛を誓ったはずだったのに。一旦関係にヒビが入ると、それまで隠されていた矛盾が一気に表出する。表出した感情はささいな一言にも傷つき、修復不可能な嫌悪へと互いを追い詰める。彼らがもっと知的に互いを探り合い求め合う関係を築けていたら、最初の困難がかえって太い絆となったであろうに。
しかし、彼らはそうはならなかった。そうはならなかったところがやはり凡百の普通のカップルなのだ。誰もサルトルとボーヴォワールにはなれない。こうしてわたしたちは最初の惹句に戻る。「愛を知る誰もが経験のある」ラブストーリーなのだ、と。
ディーンとシンディの夫婦喧嘩にはリアリティがありすぎて、心が痛む。そう、やはりこの切なさは誰もが経験のあるものなのだ。
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BLUE VALENTINE
112分、アメリカ、2010
監督: デレク・シアンフランス、製作: ジェイミー・パトリコフほか、製作総指揮: ダグ・ダイほか、脚本: デレク・シアンフランス、ジョーイ・カーティス、カミ・デラヴィン、撮影: アンドリー・パレーク、音楽: グリズリー・ベア
出演: ライアン・ゴズリング、ミシェル・ウィリアムズ、フェイス・ワディッカ、マイク・ヴォーゲル、ジョン・ドーマン