吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

告白

 3本立て鑑賞の最後は「告白」。ふつう、3本目は疲れて寝てしまうものだが、この作品は寝ていられるような気持ちのよいものではなかった。鑑賞後の気分は「キング 罪の王」に似ている。罪と罰、復讐と更正。それはどのような場合に成り立つのか? その問いの答えを求めて作られたストーリーはあまりにも極端で、リアリティがあるとは思えない。しかし、事件に至るさまざまな細部はきわめてリアルに映る。


 とある中学校の教室。1年生の終業式の日に、担任の女性教師森口は、教師の話などどこ吹く風で騒ぎまわっている生徒たちに向かうともなく独り語りを始める。「今月でわたしは教師を辞めます」。そんな言葉ぐらいでは教室は静かにならない。森口が語ろうとしたテーマは「命」だ。命の大切さを生徒たちに語る彼女の口から出た言葉は…「わたしの娘はこのクラスの生徒に殺されました」という衝撃的なものだった。たちまち教室からざわめきが消え、生徒たちは固まる。森口の口から語られた「殺人事件の真相」と、森口が犯人に仕掛けた復讐の罠の恐怖に生徒たちはパニックに陥ったのだった……


 「キング 罪の王」の主人公が激しい憎悪を以て犯罪に向かう理由も「告白」の中学生たちが殺人に走る理由も、根底のところには「愛への渇望」がある。愛されたい、承認されたいという肥大した自我の欲望が満たされなかったとき、彼らの殺意が発動する。登場人物たちが独りずつ「告白」するこの映画、彼らはすべからく自我が肥大しているため、「告白」というかたちでの独白にも嘘や虚飾がある。謎を織り上げて物語世界に観客を引きずりこむ本作の推進力はその嘘が嘘を呼ぶサスペンスフルな味付けにある。


 「嫌われ松子の一生」や「下妻物語」など、けたたましい色彩と演出に特徴のある中島哲也監督にしては、今回は極めて抑制の効いた色調の、ほとんど単色に見えるような画面作りは彼の工夫の現れであり、この話の底暗さをよく表している。



 教室の中でいじめられている生徒たち、つい先頃読んだ『ヘヴン』を彷彿とさせる場面が描かれるが、その苛めじたいもどこか夢の世界のような嘘臭さを漂わせる。なにが本当なのか、だれがこのリアルな世界にほんとうに生きていると言えるのか? 中学生たちの世界は丸ごと嘘ではなかろうか? 中島監督の演出、画面構成は観客に映画の中をリアルを何重にも異化してしまう。



 教師の言葉などまともに聞いてはいない生徒たち、なのに彼らはひとたび恐怖にあおられれば、教師の言葉に呪縛され、その通りに振る舞う。誰もが「真実」を知っているのに知らぬふりをし、森口の代わりに担任となった若い熱血教師を白々しく眺めている。若い教師とて、その熱血ぶりもどこか嘘くさい。こういった、生徒たちの恐怖や小心や妬みや苛めや役割演技、という状況描写は妙にリアルだ。



 「告白」と言いながらその中身は虚実が混じるこの物語のなかで、確かに人の命は消えていく。命の確かさや尊さなど、誰がどのように教えればいいのか? その絶望に向かって森口がしかけた究極の復讐、これが果たして真実の仇討ちになったのかどうか…。最後まで物語の結末は曖昧なまま、そして、すべてが嘘だったかもしれない。


 リアルな生を実感できない少年少女たちに、「命」のリアルさを教えることの困難が見事に描かれた力作といえよう。とはいえ、このようなありえない設定にしなければ映画にならない、というところがこの作品が持つアポリアだろう。結局このように娯楽作として消費されてしまう矛盾。



 原作を読んでみたくなった。

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106分、日本、2010
監督・脚本: 中島哲也、製作: 島谷能成ほか、エグゼクティブプロデューサー: 市川南、塚田泰浩、原作: 湊かなえ
出演: 松たか子木村佳乃岡田将生西井幸人藤原薫橋本愛新井浩文