吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ブルーに生まれついて

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 わたしはJAZZが好きだけれど、まったく詳しくない。いつも聞き流している。それが気持ちがいいから。だから、曲名も演奏者の名前もよく知らない。当然のようにチェット・ベイカーのことは知らなかった。だから、事前情報なしで新鮮な気持ちで見られたことはよかった。

 チェットは早くから才能を見出されて1950年代には人気奏者となるが、60年代にはコカイン吸引などのトラブルを起こして投獄されている。やがてドラッグがらみのトラブルでヤクザ者に前歯を全部折られ、顎を砕かれて演奏不可能となる。そのころには二度の離婚を経て、自伝映画(結局未完に終わった)で共演した女優ジェーンと恋仲になっていた。ジェーンとの結婚を夢見るチェットは懸命の努力でなんとか演奏できるまでに回復する。極貧に落ちていた二人は住まいもなく、自動車で暮らすほどの生活をしていた。チェットが過酷な練習で血まみれになりながらもトランペットを離さなかったのは、音楽への愛と執念ゆえだった。旧知のプロデューサーに何度も懇願してようやく復活のステージへとこぎつけたチェットは極度の緊張に襲われていた。。。 
 イーサン・ホークはトランペットの猛特訓を受けて、歌も披露している。チェットになりきってすさんだ声を絞り出すようにしゃべり、ドラッグ依存の情けない男の繊細な弱さを体現している。一方で恋人の愛にもある意味依存していたわけで、その姿がまた切ない。黒人のジャズを白人が演奏するという劣等感に取りつかれていたチェットは、自分が黒人に認められたいと常々思っていた。だから、復活のステージをマイルス・デイビスが聞きに来ていると知って、彼の緊張は頂点に達する。

 チェットが薬物依存を振り切ろうと努力し、死に物狂いでトランペットの練習をする姿は尊い。彼が弱い人間であることは間違いなく、ダメ人間であることも間違いないが、それだけではない魅力がチェットにはある。イーサン・ホークはそんなふうにチェットを演じている。 
 ドラッグに溺れたジャズトランペット奏者が献身的な恋人の愛に支えられて復活を遂げる感動の物語。ではなくて、そんなに美しい話で終わらないところがミソ。恋人ジェーン役のカーメン・イジョゴも熱演で、印象深い演技を見せている。白人のチェットが黒人であるジェーンの両親に結婚を願いに行ったところ、彼女の父親に反対されてしまうという場面があるのがまた印象に残る。普通は立場が逆だろうに、黒人から「お前なんかに娘をやれるか」という意味のことを言われてしまうチェットも情けない。同時に、父親が、自身が黒人だからといって白人に媚びたりしない誇り高い態度を見せるのも好ましい。

 わたしは東京出張の帰り道、夜行バスに乗るまでの空いた時間にこの映画を見たのだが、さすがに東京は人が多い。いくらミニシアターといってもこの映画で満席立ち見が出るとは。年齢層が高かったから、ジャズファンのシニアが大勢見に来ていたようだ。

BORN TO BE BLUE
97分、アメリカ/カナダ/イギリス、2015
監督・脚本:ロバート・バドロー、製作:ジェニファー・ジョナスほか、撮影:スティーヴ・コーセンス、音楽:トドール・カバコフ、スティーヴ・ロンドン
出演:イーサン・ホーク、カーメン・イジョゴ、カラム・キース・レニー

手紙は憶えている

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 ナチスの戦犯を追及できるのももうわずかな時間しか残されていない、まさにそのタイミングで作られた映画。ホロコーストの被害者が、家族を殺したアウシュヴィッツ収容所の兵士に復讐するという物語は、数年後には成立しないだろう。だから、今しか作れない映画で、今だから作れる映画でもある。戦犯を追及する被害者が90歳なら、追いつめられる元ナチスも90歳。ともに老いぼれ果てて、明日をも知れぬ身だ。

 妻を亡くしたことすら忘れてしまった老人ゼヴ・グットマンは、ホロコーストの生きのこりのユダヤ人。同じ老人施設に暮らすマックスから、自分たちの家族を殺したナチスの兵士がいまだ生き長らえていると告げられる。
「覚えているか? 君は復讐を誓った。忘れないでほしい。委細はすべて手紙に書いたから、今は身分を偽ってアメリカに移住したルディ・コランダーを殺してくれ」
 車椅子生活になったマックスはもはや自分では復讐できない。望みの綱は友人のゼヴだけなのだ。何でもすぐに忘れてしまうゼヴのために、マックスは手紙を書いた。容疑者は4人にまで絞られた。一人ずつを訪ねて本人を追及し、復讐を遂げる役割はゼヴに委ねられた。ともにアウシュヴィッツを生き延びた人間として、ともに家族を皆殺しにされた人間として、ゼヴは残りの人生を復讐にかけて旅に出ることをマックスに誓う。こうして、アメリカを縦横に駆け、カナダ国境を越える復讐の旅は始まった。記憶が薄れゆくゼヴの頼りはマックスの手紙だけ。「手紙を読め」とゼヴは自分の腕に書き込んだ。拳銃も手に入れた。果たして彼らの復讐は遂げられるのか?

 戦後70年も経って壮大な復讐譚が物語られる。初期の認知症であるゼヴの一挙手一投足が観客にとってはハラハラさせられどおしで、スリルに満ちている。細部に至るまで、心憎いほどの演出が効いているところはさすがアトム・エゴヤン監督の作品だと思わせる。自身がアルメニア大虐殺の子孫であるエゴヤン監督がこのような作品を作ることは理解できる。しかししかし。70年経っても復讐の執念は消えないのか。消えないのだろう。ユダヤ人は2000年以上前の故郷喪失の記憶も忘れない民族なのだから、たかだか70年の恨みは消えることはないだろう。それが悲しくつらい。わたしたちの世代はいつまで戦争の記憶を持ち続け、いつまで復讐の執念を燃やさねばならないのだろう。もちろん、戦争の記憶は忘れてはならない。二度と同じ過ちを繰り返さないために。しかし、復讐はまた話が違う。

 この復讐譚の恐るべきところは、失われつつある記憶を繰り返し召喚し、繰り返し増幅させるうちに、かつての恐るべき記憶をゆがんだ形で再生させていくことだろう。そして何よりも、復讐の連鎖が次の世代にまで受け継がれるかもしれない恐怖だ。だから、衝撃のラストはさまざまな論議を呼ぶことが必至と思われる。見終わった後にもう一度最初から見直して、そして誰かと語り合いたくなる作品だ。

 本作はアーカイブズ映画でもある。ホロコーストの記録を収集しているサイモン・ヴィーゼンタール・センターが登場し、ゼヴとマックスもここで自分たちの復讐相手の情報を入手する。

REMEMBER
95分、カナダ/ドイツ、2015

監督:アトム・エゴヤン、脚本:ベンジャミン・オーガスト、音楽:マイケル・ダナ
出演:クリストファー・プラマーブルーノ・ガンツ、ユルゲン・プロフノウ、ハインツ・リーフェン、ヘンリー・ツェーニー、ディーン・ノリス、マーティン・ランドー

 

この世界の片隅に

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 「君の名は。」よりもいい、という大人が大勢いる作品なので遅ればせながら見に行ったところ、やはり劇場は混んでいた。

 戦時下の広島と呉の日常生活を、19歳のすずという女性(というより少女)を通して描いた作品。現在の呉市には大和ミュージアムがあり、軍艦大和の模型が展示されている。このアニメの中ではその大和が軍港呉に係留されている様子が描かれている。軍港であるがゆえに何度も空襲を受ける呉の町。郊外に住むすずの嫁ぎ先にも焼夷弾が落ちてくる。

 こうの史代の素朴な線画を生かしたアニメは原作にはない緻密な背景の描き込みが特徴で、戦争によって破壊される前の広島の町や呉の町を哀切とともに浮かび上がらせる。観客はその街並みがすべて失われることを知っているから、かすかに心をかき乱されながらその風景を見ることになる。

 大人しくて内気なすずがただ一つ得意なことは絵を描くこと。彼女は時間があれば街並みを写し取り、生活を描き、スケッチブックに綴っていく。それは言葉少ないすずにとって、言葉よりも饒舌に彼女の心を語るものなのだろう。

 「すずさんは普通じゃのう」と言われる、そんな、ほんとうに「ふつう」に生きるすずだから、戦争が起きてもそれが誰のせいなのかと考えもしないし、配給の食べ物がどんどん減っていっても文句を言うこともない。まるで「仕方がない」と思っているかのようだ。いや、実際「仕方がない」と思っていたのだろう。あの当時の多くの日本人と同じく、彼女も仕方がないと思って救貧生活に耐え、戦争だからと耐え、兄が戦死しても「これが戦争だから」と耐えたのだろう。

 しかし、そんな彼女にも耐えがたいことが起きる。空襲により彼女自身が大きく傷つき、大切な命が失われる。なぜなんだ? 失われていくもの、喪われた命、二度と戻らない日々がすずを打ちのめす。やがて広島に原爆が落とされる、そのキノコ雲を見上げる呉の人々の驚きや、広島から爆風で飛ばされてきた戸やビラやさまざまな品々が、破壊力のすさまじさを物語る。

 驚くべき精密さで再現された昭和初期の町や日常生活が心にしみわたる。黒木和雄監督の「TOMORROW 明日」を想起させるような、「淡々とした日常生活が破壊される戦時下の暮らし」がここでも描かれているのだ。海の向こうの日本軍の残虐も差別もこの映画には描かれない。誰が被害者で誰が加害者なのかも問われない。けれど、戦争が奪っていくものの尊さをじっくり描いた本作は、静かな感動に満ちている。原爆が広島の町を焼き払っても、大切な命が奪われても、生き残った者はそれでも生きていかねばならない。戦争が続いていようが終わろうが、飯を炊かねばならない。その日常のよすがとなる記憶を留める、すずの描いた絵は、彼女と家族にとっての宝物になるだろう。

 エンドクレジットが画面に現れたとき、もっと見ていたいと思った。この後、この人たちはどうなるのだろう、どうするのだろう、と気になって仕方がなかったのだ。もうすずさんは他人じゃない、わたしの妹のようにも、娘のようにも思えたから。

126分、日本、2016
監督:片渕須直、原作:こうの史代、脚本:片渕須直、音楽:コトリンゴ
声の出演:のん、細谷佳正、稲葉菜月、尾身美詞、澁谷天外

 

ザ・ギフト 

 この作品、映画としては出来がいいと思う。しかし、点数をつけるのもいやになるぐらい陰鬱な作品だ。そして、怖い。この映画を観ている最中に、「なんでこの映画を観ようと思ったんだろう。もう帰りたい」と思うほど、怖かった。

 あらすじはこうだ。若者から中年にさしかかる年齢の夫婦がロサンゼルス郊外の邸宅を購入した。彼らは成功したミドル世代だ。引っ越しのための買い物をしている途中で、夫のサイモンの友人と名乗る男が近づいてくる。確かにその男ゴードはサイモンの高校の同級生だった。ゴードはサイモンとロビン夫妻の家を訪ねて贈り物(ギフト)を玄関に置いて帰る。それは美味しそうなワインだった。それ以後、ゴードは何度もサイモン夫妻の家にギフトを届けるようになる。しかし、サイモンはゴードを快く思っていない様子。徐々にゴードの態度が度を増すようになり、サイモンはイライラし始める。ロビンはこの家に引っ越してくる前に子どもを流産したつらい記憶がまだ癒えないでいる。そんな彼らに、不気味な影が忍び寄る。。。

 わたしのような怖がりを怖がらせる要因はいくつもある。そもそも、邸宅を購入した途端に現れるっていう同級生が不気味だ。素朴そうな同級生。今は社会の底辺で呻吟していそうな彼が、かつての同級生で、成功したビジネスマンの家を訪ねる。しかしその彼がいないときにに陰口を妻に向かって吐くような嫌な男、サイモン。徐々にサイモンというエリートのいやらしさが見えてくる過程がスリリングだ。なぜゴードがサイモンに付きまとうのか、その理由もやがて明らかになる。
 サイモンとロビンの邸宅が全面ガラス張りというのも怖い。なんでこんな家に住む人がいるのか、わたしには理解不能なのだけど、外に向かって無防備なこの家のつくりそのものが恐怖の淵源だ。ガラス張の家は成功した夫婦の自己顕示欲の象徴なのだろう。

 ストーカーの怖さには、1)見ず知らずの人間に付きまとわれる恐怖、2)相手を知っているだけに味わう恐怖、の2通りがある。本作の場合、2である。2であることはやがて明らかになる。本作の視点はほぼサイモンの妻ロビンのものだ。なぜゴードにつきまとわれるのか、ロビンも観客も知らない。やがて真相を知ったとき、取り返しのつかない出来事が起きていることに気づく戦慄。「もう遅い、遅いんだよ」とゴードが何度も言う、そのセリフの真の意味を観客が(そしてサイモンが)知った時の衝撃はえもいわれない。

 思い返せば、いろんなセリフがすべて伏線だったとわかるラストに、観客は唖然とするだろう。本当に怖い映画だ。そして、後味も悪い。

 ひょっとして監督・脚本のジョエル・エドガートンはいじめられっ子で、復讐をこの映画で果たそうとしたのか、と勘繰ってしまうような物語だった。

THE GIFT
108分、アメリカ、2015
監督・脚本:ジョエル・エドガートン、製作:ジェイソン・ブラム、音楽:ダニー・ベンジー、ソーンダー・ジュリアーンズ
出演:ジェイソン・ベイトマンレベッカ・ホールジョエル・エドガートン、アリソン・トルマン

 

ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期

 シリーズ第1作から15年が経っているけれど、映画の中では10年しか過ぎていないことになっている。しかし実際のところ、15年経ってるわけだから、マーク・ダーシー(コリン・ファース)の老け方が半端ない。でもスーツが似合って素敵。レニー・ゼルウィガーも痩せて老けたけど、笑顔がかわいい。この、人のよさそうな笑顔があるから、「モテ期」というタイトルに説得力が出るわけだ。

 このシリーズは女の願望がそのまま表れたようなもので、本作に至ってはブリジットがこれ以上ないというモテ方をする。ありえないよね、こんな話。なんと今回はブリジットが43歳で妊娠出産するというすごい設定になってしまった。これ、彼女が48歳ならもう出産はほぼ不可能だから43歳というギリギリの設定にしたんだろう。
 シリーズとしては12年ぶりの作品だが、前作をほぼ全部忘れている。ダーシーとブリジットは結婚するということになっていたのか。ふーむ、覚えていない。で、久しぶりにマーク・ダーシーとブリジット・ジョーンズは再会するわけだが、なんとそれはスケコマシのダニエルの葬儀でなのだ。”All by Myself"を歌うブリジットと彼女の日記独白、という巻頭には懐かしくて笑いそうになった。そうそう、15年前もこれだったよね。

 あとは、下ネタやギャグやおふざけ満載の展開で、コメディなんだからなんでもあり。ブリジットが妊娠したのはいけれど、果たして父親は誰なんだ? 父親が誰かわからないという展開なのに、誰も本気で悩んでいるように見えないところが天晴だ。産婦人科医も話を合わせようとするし。エマ・トンプソン、当たり役って感じがしてとてもよかった。この人、最近医師役が多くないですか。

 正反対の二人の男に愛されて、どこまでも尽くされる羨ましいブリジット。二人の男の間で迷うブリジットだけれど、やっぱり選ぶのはこの人なのよねー。

 15年経って世の中は同性愛が堂々とカミングアウトしやすくなり、代理母だの同性結婚だのと多様性が増えたことが映画の中でも肯定的に取り上げられていて、歳月の流れを感じさせた。

 なんと、この作品はパンフレットを製作していないと! もうこの頃では劇場用パンフレットははやらないのだろうか。この後に見た「ギフト」もパンフレットを販売していなかった。パンフレット収集家としては大変残念である。あ、調べてみたら、前作のときもパンフレットを作っていなかった。著作権者が許可しないそうだ。なんで?

BRIDGET JONES'S BABY
123分、イギリス/フランス/アメリカ、2016
監督:シャロン・マグアイア、製作:ティム・ビーヴァン、脚本:ヘレン・フィールディング、エマ・トンプソンダン・メイザー、撮影:アンドリュー・ダン
出演:レニー・ゼルウィガーコリン・ファースパトリック・デンプシージム・ブロードベント、ジェマ・ジョーンズ、エマ・トンプソン

 

淵に立つ

 描かれているのは復讐なのか、贖罪なのか。
 ある日突然、町工場の入り口に中年男が姿を現した。工場のオーナーの古い友人のようだ。礼儀正しい彼は刑務所を出所したばかり、ということは間もなく観客にも知らされる。町工場の住み込み行員になった男は、じわじわとこの家族の中に位置を占めていく。最初は工場主の妻の中に。やがては工場主の小学生の娘の中に、後戻りのできない大きな傷を残していく。それは復讐だったのだろうか。誰にもわからない。
 工場主の妻を演じた筒井真理子がひどく艶めかしい。実年齢は五十代半ばというのに、映画の前半の彼女はつやのある長い髪をやさしく揺らせながら微笑む若奥様を演じている。だが、「事件」から8年後の彼女はすっかり疲れ切った中年女性として画面に現れる。女優とはかくもすさまじく役柄に合わせて変われるものなのか。
 夫婦の絆も家族の愛もなにもかもが、一人の男が一家の中に入り込んできたことによってもろくも崩れ去るさまを残酷に冷酷に描いた作品として、本作は観客に鋭い問いかけを残していく映画だ。小市民の幸せなんてしょせんはこの程度のものよ、とあざ笑うかのような展開に、見る者の心が凍り付く。神を信じたはずの妻がもはやすっかり信仰をなくしてしまう、そんな残酷な日々の中で、それでも真実を知りたいというただ一つの執念に翻弄されていく。なぜ自分たち家族がこんな目に遭うのか? しかし、「こんな目」そのものを全否定することは、観客自身の中にある差別意識との対峙を迫ることになる。なんという意地の悪い映画だろうか。何という戦慄の映画であろうか。

 映画の途中で忽然と消えてしまう浅野忠信が、最後の最後まで零細工場主夫婦を翻弄する。物語の中心である浅野忠信は空洞であるにもかかわらず、この一家の夫婦にとって永遠に追いすがっていきたい執念を植え付ける存在となる。不在の現前。不在であることがかくも大きな現前であるという逆説。浅野忠信に代わって登場する、物語後半の人物は、その出自を明らかにした瞬間に、映画空間を震撼させる恐怖をこの一家にも、そして観客にも与える。これほどの因果をさらりとこの人物に語らせる脚本が怖い。

 誰もが淵に立つこの寓話は、しかし、平凡な日常生活を営む多くの人々にとっても、ある導火線に気付かせるたくらみがある。わたしたちは淵に立っているのだろう、きっと。そのことにずっと前に気付いていながら、気づかないふりをしている。もう気付いていることを言明することすら諦念の中で面倒になり、もはやどうでもいいこととなる。淵に立つ人々は、その淵から転がり落ちたときにはじめて自分が淵に立っていたことに気付くのだろう。いや、気づかない振りをしていたことに思い至るのだろう。

 音が異様に響く映画。こういう音の使い方は「シルビアのいる街で」以来久しぶりかも。

119分、日本/フランス、2016
監督・脚本:深田晃司、撮影:根岸憲一、音楽:小野川浩幸
出演:浅野忠信筒井真理子、太賀、三浦貴大、篠川桃音、真広佳奈、古舘寛治

 

イレブン・ミニッツ

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 午後5時の鐘が鳴り響く大都会、11分後にはある惨劇が起きるのだが、そこに至るまでの11分を群像劇で織り上げていく、斬新な作品。
 だれが主人公なのかは最後にわかるのだが、次々といろんな人々が登場するため、いったい何がどうなっているのやらわかりにくくて困る。何よりも、人物の顔の見分けがつきにくい。馴染みのある役者が登場しないため、誰と誰がどうなっていたのかわからなくて困った。これ、2回見たら理解できるのかもしれない。

 新作のオーディションに向かう豊満美女の女優が、下心丸出しの監督が宿泊している豪華ホテルの部屋にやってくる。これがそもそもミソだったんだ、ということが最後の最後にわかるのだが、そういうことを全然知らなくて見たら、群像たちの役回りが不明でイライラさせられるかもしれない。

 ただ、同じ場面を違う角度から見るとまた違った見方ができるというところは面白い。「桐島部活やめるってよ」と同じ撮り方をしている部分があるのだ。いろんな人物がなんのまとまりもなく登場しては消え、消えてはまた現れる。そして時計は着実に針を進めて、運命の5時11分に近づく。

 なんといっても圧巻はラストシーン。ストップモーションで見せたこの惨劇はどのように撮影したのかと首をひねるほど、計算されつくしている。これをしたかったのか、スコリモフスキ監督。このシチュエーションドラマは、人間の運命の不思議を感じさせる作品であり、ひょっとしたらこれって仏教思想が根っこにあるんじゃないかと思える。そう、「縁」とか「因果応報」とか。

 この映画が、強烈な惨劇を描いているからインパクトが大きいが、わたしたちの人生にはこれよりはるかに規模の小さな「嵐」や「風」が吹いてくることがある。なんの因果でか人と人が出会うこともあり、一目合ったその日から何かが始まることもあり、偶然のからまりが事故を引き起こすこともある。

 たとえば大地震が起きる11分前の出来事をこの映画のように描くことも可能だろう。11分後に大災害が起きることを誰も知らない、その日常の世界を。原爆投下が明日に迫っていることを知らない人々を描いた黒木和雄の「Tomorrow 明日」という作品もあった。だが、そういったものとは一味違うのは、この映画で起きる惨劇はどれか一つのコマが違ってもこの事件が起きない、という点だ。ありとあらゆる登場人物がたった一点の「発火点」に遭遇する、その場に居合わせる、そのことがドミノ倒しを引き起こす。

 不気味に雰囲気を盛り上げる音楽に恐怖を募らせながら、ある意味爽快でもあるラストの臨界へ向けて、さあ、飛びこもう映像世界へ!

11 MINUT
81分、ポーランドアイルランド、2015

製作・監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ、製作:エヴァ・ピャスコフスカ、音楽:パヴェウ・ミキェティン
出演:リチャード・ドーマー、パウリナ・ハプコ、ヴォイチェフ・メツファルドフスキ、アンジェイ・ヒラ、ダヴィッド・オグロドニック、アガタ・ブゼク、ピョートル・グロヴァツキ、ヤン・ノヴィツキ、アンナ・マリア・ブチェク、ウカシュ・シコラ