吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

ほかげ

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 塚本晋也監督には「野火」という恐ろしい作品がある。あれは忘れられない恐怖体験であり、二度と見たくないけれど一度は必見と言える作品だった。「野火」は大岡昇平が緻密に描いた、恐るべき戦場の飢餓小説を映画化したものだ。目を覆うような惨状が繰り広げられていた。

 一方、敗戦直後の庶民の生活を描く「ほかげ」には、一転して戦後の退廃的な雰囲気が濃厚に漂う。戦争が終わって人々は解放されたはずなのに、その喜びも希望も感じられないような画面が続いていく。

 舞台は東京の下町と思しき小さな居酒屋、そこは周囲が大空襲で焼け野原になったにもかかわらず奇跡のように焼け残った家だった。焼け残ったというよりは半焼けのまま生きながらえた妖怪のようなおどろおどろしい文様が襖(ふすま)を飾る、店舗兼住宅である。

 その、狭苦しくて息が詰まるような家の中で物語は展開する。居酒屋といいながらカウンターは殺風景で食器はほとんどない。食べ物もほとんどない。こんな店では生計は成り立たないだろう。店主である一人暮らしの若い女は売春によって生活を維持していた。

 そんなある日、7歳ぐらいの少年が店にやってくる。戦争孤児である彼は闇市で食べ物を盗んで生きていた。そしてもう一人、若い復員兵が女の体を買いにやってきたが、彼は少年と共にそのまま居酒屋にいついてしまう。疑似家族のように三人は毎晩、川の字になって眠った。暑い暑い昼間、夜も暑くて寝苦しい。汗だくになっている彼らのすえた体臭が漂ってきそうな暑苦しさと不潔さに、さらに戦争が終わってもなお満たされない飢餓や喪失の悲しみが重なっていく。

 やがて徐々に彼らの過去がうっすらと観客にも伝わってくる。場面は室内のまま、登場人物もほとんど三人のまま、閉塞感に苦しめられる密室劇に、ある日突然外の世界が加わる。この転回により、観客は張りつめていた息苦しさから解放されたかに思うのだが、そうは問屋が卸さない。少年は正体不明の男と共に旅に出る。それは戦争に決着をつける旅だった……。

 戦争は終わったのに、苦しみは終わらない。人間は壊れ、悪夢にうなされる。この映画は敗戦直後の庶民の暮らしと心情を、鬼気迫る映像で切り取った。女にも男にも子どもにも名前はない。役者たちは名もない人々を渾身で演じている。とりわけ、子役の塚尾桜雅の理知的な瞳はまっすぐに大人たちを射抜く力強さを持つ。ヒロインを演じた趣里の存在感も際立っている。

 「野火」の凄惨な戦地だけではなく、戦後まで地獄は続いていた。塚本監督は、新たな戦前とも思える今の世界にこの作品を放った。それは火影(ほかげ)に揺れる人々の姿に未来へのかすかな希望を託す物語だ。託された未来を、わたしたちはつかめるのだろうか。

 ところで、主演の趣里NHK朝ドラ「ブギウギ」とはまったく違う人物のように見える素晴らしい演技だと評判になっているが、私はテレビ放送を見る習慣がないため、朝ドラもまったく見ていないので比べることができないのは残念だ。

  2023
日本  Color
監督:塚本晋也
製作:塚本晋也
脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也
編集:塚本晋也
出演:趣里森山未來、塚尾桜雅、河野宏紀、利重剛、大森立嗣