吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

万引き家族

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 6月3日の先行ロードショーで見たのに続き、7月21日に2回目の鑑賞。二回目でさらに完成度の高さに脱帽した。この上いっそう余裕をもって観賞するためには三回見る必要がある映画だ。とはいえ、そんなにハードルを上げたらいけないいけない。一回の鑑賞でも十分感動できる。わたしは一回目は涙しながら見ていたが、二回目は冷静に見ることができたので、感情を揺さぶられることがなくその代わりに理性が研ぎ澄まされる思いがした。
 巻頭、スーパーマーケットで万引きする父子の姿が映る。観客はハラハラしながらその様子を見守り、やがてまんまと盗みおおせた父子の姿にホッとする、という犯罪者への共振という事態から映画の世界へと引きずり込まれる。と思った瞬間に「万引き家族」というタイトルが現れる。上手い。
 是枝監督の脚本は緻密で隙がない。たったひとことのセリフで登場人物の過去や現在の立場・感情を観客に示す。この完成度の高さは「誰も知らない」のころから際立っており、「歩いても歩いても」では神業になっていた。本作でも背筋がゾクゾクするほど練りこまれた脚本に感動して嬉しくなる。
 万引き一家はおばあちゃんを筆頭に家族5人で暮らしていたところに、新たに一人、五歳の少女が加わる。ユリというその子は小学生の翔太を「お兄ちゃん」と呼び、すっかり一家になじんでいく。しかしこの一家が訳ありであることはかなり早くから観客に知らされる。五人で暮らしているおばあちゃんの家に来客(民生委員か?)が来て、「一人暮らしだと大変でしょ」などと言う。「息子さん、九州だっけ」などとも言う。だから、彼らの正体が種明かしされていく過程はそれほどスリリングではない。実は最後まですべてが明らかになるわけでもないのだ。なぜ彼らは大都会の片隅に一軒だけ忘れられたように建っているあばら屋に肩を寄せ合って暮らしているのか。ほんの少しの謎は残るが、多くを語らずにさりげなく見せていくその脚本と演出の見事さには、カンヌ映画祭パルムドールも当然と思える。

 この映画は日本の貧困を描き、家庭内暴力や家庭崩壊の様子をリアルに見せているので、一部の政治家は気に入らなかったようだが、「菊とギロチン」を見た後だと、大正時代のほうが今より遥かに貧しかったということに改めて思いいたる。貧困問題とはすなわち格差問題であり、社会構成員皆が等しく貧しければ貧困問題など発生しない。この映画ではその格差を視覚的に見せていく。たとえば一家のあばら屋の隣は空き地で、つまりここが地上げに失敗して取り残された土地だとわかり、その周辺は高いビルが囲んでいるため、その建物の高さの格差が明らかになる。この場面の俯瞰の巧みさには舌を巻く。この場面とはすなわち一家が隅田川の花火を見上げる場面なのだが、音だけが聞こえて花火そのものは見えない。家族が一人また一人と夜空を見上げ、その顔に光が当たる。この照明と撮影の見事さは、さすが近藤龍人撮影監督。室内の場面が多い本作で、近藤さんの技が冴える。絶対に撮影賞とれるよ、これ。
 「誰も知らない」でも本作でも感じることは、是枝さんのアナキストぶりだ。彼は国家や公的権力の介入を良しとしない。「誰も知らない」では養護施設で暮らすことを主人公の中学生が選ばなかったことを肯定的に描いているし、本作でも常識人ならケースワーカー児童福祉施設に連絡すべきだと考えるような解決方法を是枝さんは提示しない。虐待された幼女を「誘拐」ともいえるような手口で保護する主人公夫婦を是枝さんは温かい目で見つめている。警察に通報したり福祉施設に収容するのではなく、地域住民の手で子どもを育てていく。それが当たり前のやりかたなのだとさりげなく示している。つまり、権力の介在という「疎外」から遠く離れた地点を是枝さんは見ている。ただし、これは今の社会ではやはり犯罪には違いない。違いないから破綻する。
 ではラストシーンをどう考えるべきか。これはいつもの是枝節である。つまり、解釈を観客にゆだねている。いろんな人がこのシーンをどう見るか、十人十色だろう。わたしは一回目はこの映画がハッピーエンドかどうかは微妙だと思ったが、二回目にこれはハッピーエンドなのだと確信した。この物語が未来に向かって開かれているからだ。少年は「父」と決別し、その瞬間に父性愛へとなびく。愛と別れが同時に少年の胸に去来し、彼は大人になる。少女は何かを見つけて(何かを聴いて)ベランダから身を乗り出す。それは未来への投企なのだ。6歳にして彼女は実存をかけて外界へと身を乗り出す。なんという素晴らしいラストシーンだろう。これからどんな過酷な事態が待っているかもわからないが、それでも少女は未来に向かう。
 さて、この映画は労働映画でもある。主人公リリー・フランキーは日雇い労働者で、ある日、ビルの建設現場でケガをして帰宅する。「日雇いにも労災保険が下りるんだって」と妻の安藤サクラに告げるが、その後労災認定されなかったことがわかる。この場面でわたしの溶けかかった脳みそはフル回転した。業務上災害として認定されなかった理由は、「業務遂行性」と「業務起因性」のどちらかあるいは両方が成立していなかったからだろう。すると、休憩時間のケガだったのか? だとしたらあの場面がその伏線か?! などとあれこれ考えてしまった。この件、詳しい人はぜひ謎解きしてほしい。
 この映画は年金詐欺事件をヒントに作られたという。その点でももう一つ謎があって、なぜ樹木希林は年金を受け取ることができていたのか? 遺族年金か。だとしたらそれは元々誰の年金だったのか。離婚した夫の年金は受給できないはずなのに。。。。と、いろいろ話題は尽きない。先日この映画を語り合う飲み会の席上で、知人の年金機構職員がこの謎の年金問題に注目していて、大いに話題が盛り上がった。
 最後に、演技陣の素晴らしさに一言。いまさら褒めるまでもなく安藤サクラは天才である。子役二人もめちゃくちゃうまいし、目つきに感心する。リリー・フランキーの下品でやさぐれてそのくせ優しい男の情けなさも絶妙、柄本明の駄菓子屋の主人なんて最高にいいところを持って行った、という感じ。樹木希林はもはや人間国宝ですな。

 そうそう、音楽のことも語らなくては。ドップラー効果みたいな不安定な旋律がとても不思議な印象を残した。これもまた見どころ聞きどころの一つ。

120分、日本、2018
監督・脚本:是枝裕和、製作:石原隆ほか、撮影:近藤龍人、音楽:細野晴臣
出演:リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人森口瑤子柄本明高良健吾池脇千鶴樹木希林