吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2025年ごろかも。旧ブログの500本弱も統合中ですがいつ終わるか見当つかず。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

奇跡のひと マリーとマルグリット

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 奇跡の人はヘレン・ケラーだけではなかった。

 19世紀末、フランスの修道院に連れてこられた三重苦の少女マリーと、彼女を忍耐強く教育した修道尼マルグリットの物語。
 耳の聞こえない少女たちが暮らす修道院に勤める、病弱で余命いくばくもない修道尼マルグリットは、ある日両親によって連れてこられた14歳の少女マリーの教育係を買って出る。野生児のようなマグリットに食事のしつけやベッドで眠ること、清潔な服を着ること、入浴すること、髪をとかすこと、およそ人間らしい躾のすべてを施そうと苦闘する。二人はつかみ合いひっかき合い、戦闘状態を繰り返し、マリーは言葉にならない叫びをあげ続ける。しかし8か月が経ったとき、マリーは物には言葉があることを理解する。大好きなナイフに「ナイフ」という言葉があることをマグリットの辛抱強い手話によって知ったマリーは、次々と言葉を獲得していく。
 そうして二人の愛情のきずなが結ばれていくのであった。だがマルグリットには残された時間がもうなかった……

 ヘレン・ケラー物語とほぼ同じ展開なので、だいたい想像通りにお話は進む。ヘレンが最初に知った単語は「水」だったが、マリーは「ナイフ」だった。言葉を一つ覚えると、あとは堰を切ったように語彙が増える、というのも同じだ。しかし名詞は理解できても形容詞や複雑な概念はどうやって身につけていくのだろう? 人が言語を獲得していく過程にとても興味を覚えるが、この映画ではあっという間にマリーが成長してしまうので、そのあたりの詳細が伝わってこないのがわたしには不満だ。

 人間は言語によって成り立つ動物だということをこの映画を見るとつくづくと実感する。言語が獲得できなければ社会的コミュニケーションは成り立たない。その複雑なシステムをもっと見せてほしかった。

 とはいえ、マリーが他者を確認する方法が<顔を撫でまわすこと>であるのが興味深い。遠慮会釈なく他人の顔を撫でまわし、マリーはそれが誰であるのかを識別する。触り、臭いをかいで、人も物も、世界そのものを知っていくのだ。この描写は感動的だ。演じた新人女優アリアナ・リヴォワールも聾者であるという。彼女がどんどん素晴らしい笑顔を見せるようになり、ついには「愛している」とマルグリットに告げる場面は胸が熱くなると同時に、見ているこちらも思わず微笑んでしまう。

 忍耐強さと愛情があればこのように人を成長させることができるだと思えるのなら、教育する立場にある人にはたいへん勇気づけられる映画ではなかろうか。しかしこのような成功例の陰に無数の失敗があったのだろうと想像すると、もともとマリーが持っていた高い知能が彼女たちの救いになったのでは、と思わずにはいられない。
 言語が人を作る。そのことを強く印象づけられた作品だった。(レンタルDVD)

MARIE HEURTIN
94分、フランス、2014 
監督: ジャン=ピエール・アメリス、製作: ドゥニ・カロ、ソフィ・レヴィール、脚本: フィリップ・ブラスバン、ジャン=ピエール・アメリス、撮影: ヴィルジニー・サン=マルタン、音楽: ソニア・ウィーダー=アザートン
出演: イザベル・カレ、アリアナ・リヴォワール、ブリジット・カティヨン、ジル・トレトン、ロール・デュティユル