吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

 もう一ヶ月も前に見たのだが、戦争映画を2本続けてご紹介。


 本作の真珠湾攻撃の場面はアメリカ映画「パールハーバー」と見比べたら面白いだろう(しかし「パールハーバー」の内容をすっかり忘れた)。「トラトラトラ」も再見したくなったのでちょっと調べてみたら、完全版はブルーレイで間もなく販売になる。


 本作の山本五十六が善人すぎると思うが、実際にこのように穏やかで愛嬌のある優しい人だったのだろうか。陸軍はバカで海軍は先見の明があったというステレオタイプは相変わらず。しかしその海軍の中にあってもやっぱりバカは存在する。その、海軍の中の馬鹿は軍令部総長永野修身。日米開戦派はことごとく馬鹿という設定になっている。

 実際、山本五十六が避戦派だったのは有名な話で、一刻も早い講和を常に望んでいたのは確かなようだ。アメリカに留学した経験のある山本は、アメリカと戦う不利を充分承知していた。だからこそ、奇襲作戦しか勝ち目がないと知っていたのだ。


 この映画は山本五十六を徹底的に温厚で先見の明のある人物として描いている。だから彼に愛人がいたとかいうような都合の悪い話は一切出てこない。家庭にあっては優しい父であり、妻をいたわり、一皿のカレイの煮つけを家族6人で分けて食べる慎ましい態度を見せる。煮つけを一切れずつとりわけ、長男から始まって末っ子にまで与えると、「はい、お母さん」と妻の皿に一切れを乗せ、最後に残った骨とわずかな身を自身が食べる。なんという涙ぐましくも微笑ましい一家団欒の姿だろう。小さな卓袱台を家族が囲んで貧しい食事を共にする、物がなかった時代の食事のほうが美味しそうなのはなぜだろう。こういう、失われた家族の食事風景が好ましく思えるのは、我が家が最近個食化しているからか。

 考えてみれば海軍の軍人である山本五十六はほとんど家に居なかったであろうし、たまに家族全員で食事をするときぐらいはあのように楽しそうに慎ましく礼儀正しく、質素な食べ物を精一杯ご馳走のように味わうのが唯一の贅沢であったのだろう。

 アメリカとの戦争に反対し、日独伊三国同盟に反対し続けた軍人が、いざ開戦となると果敢な奇襲作戦に打って出るという一種の博打をしかけたのは、山本が博打好きであったことからも説明できるのだろう。首相が短期間に何人も交代し、「無敗の帝国」との慢心のうちに取り返しのつかない戦争へと突っ走っていった当時の日本が、原発安全神話の上に胡坐をかき続けてきた日本の今の姿と重なって見える。

 ところで、劇場用パンフレットを読んでみたが、どこが「70年目の真実」なのかさっぱりわからなかった。真珠湾攻撃に関してはもはや「新説」は登場しないだろう。太平洋戦争勃発から70年を過ぎて、日本がどのように無謀な戦争に突入していったかを知る世代も完全に少数派となった。軍隊内部の確執として、また世論を煽った新聞界への批判を通して戦争を自己批判するのも一つの反省の方法として有効だろう。しかし、総力戦として日本が戦時体制に突入したその状況は、山本五十六一人を描けば事足りるわけではまったくない。と同時にまた矛盾するようだが、戊辰戦争で廃墟と化した郷里長岡の物語を聞いて育った山本が、戦争とともに個人史を重ねていく姿に、彼の非戦軍人としての原点があることも忘れたくない。彼は軍人であった。戦争を避けたい軍人、しかしひとたび戦火を交えるとなると軍人は戦をせねばならない。戦わない軍隊など実は存在しないのだ。自衛隊と称する軍隊も、いざ戦争になれば戦わねばならないだろう。どんなに平和を希求しても、軍隊が存在する限り平和は軍事力でしかもたらされない。その苦しい矛盾をどう止揚するのか。

140分、日本、2011
監督: 成島出、プロデューサー:小滝祥平、脚本: 長谷川康夫、飯田健三郎、音楽: 岩代太郎
出演: 役所広司、玉木宏、柄本明、柳葉敏郎、阿部寛吉田栄作椎名桔平益岡徹原田美枝子香川照之