吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

『朗読者』再読

 上記の映画鑑賞の後、何年ぶりかで読み直す。ああ、これほど切ない少年の恋だったとは。

 21歳も年上の女ハンナを愛したミヒャエルは、彼女が突然怒り出したりイライラする理由がわからず、戸惑い赦しを乞う。ハンナが不機嫌なときはいつも自分が折れていつも自分に罪があると思い、その罪を償わなくてはという気持ちにかられる。ミヒャエルはひたすらハンナを愛するが、彼女の気持ちはわからない。果たして愛されているのかどうか、自分には確証がないのだ。


 この切ない一途な少年の愛がよく描かれている。愛する相手が時として態度を変えたり右と言ったことを左と言い換えたり不機嫌になったり、気むずかしい様子を見せるそのたびに小さな胸は痛みおろおろする。迷える子羊とは我のことであるという絶望的な気分になり、自分は本当に愛されているのだろうか、いや、決して愛されてはいないのだろう、という悲しみに満たされ、毎日が暗いおもりにどんよりと閉ざされていく。会いたがるのはいつだって自分のほうであり、相手は会えないことをちっとも残念には思っていないのだ。自分と会っていないときの愛する人がいったい何をし何を考えているのは何もわからない。自分のことを恋こがれてくれているのだろうか? 会いたいと思ってはくれないのだろうか? 少年の瑞々しい感情の揺らめきが丹念に描かれる。



 数年前、この第1部をそれほど面白いとは思わなかった。しかし、読み直してみて、少年の日の恋の切なさと初々しさを心おきなく描いたこの第1部がなければ次の本編たる第2部が生きてこないことがよくわかる。哲学者の父、15歳のミヒャエルの初恋。いつも自分が罪を背負わなければならないという強迫観念に無意識にかられている戦後世代の若きドイツ人。彼らは戦争責任を戦後になって負わされる世代なのだ。



 そして第2部。いよいよナチスの戦犯裁判の場で再会するハンナとミヒャエル。



 裁判の場面はこの作品の中で大きなクライマックスなのだが、意外と本は淡々としていることに気づいた。これは映画のほうが遙かに盛り上がりがあると言える。いよいよ目が離せない。


 6年前に原作を読んだときの感想から一部引用。

 第二部、ナチス時代の戦犯を裁く裁判の場面になると、物語は急転する。第一部で語られた少年の思い出が裁判の行方に微妙な影を落とす。まだ物語の筆致は淡々として、感動的な盛り上がりに欠ける。

 そして第三部。やはりほとんど盛り上がりを感じないまま物語は進むのだが、それでもラストに至って、かつての少年が愛した女性に対して、読者は深い敬愛の念を抱いてしまう。

 これはナチスの犯罪を声高に追及する物語ではない。むしろ、歴史を裁く者の正義を疑い、真実よりも大切な個人の尊厳というものの存在を知らしめる、深い思索に満ちた物語だった。

 上記のように、最初に読んだときはこの作品の中に一つのテーマしか見出すことができなかった。今回映画を見てさらに再読することにより、多くのことを読み込むことができた。前回強く感じたのは、「プライド」である。ハンナにとって「文盲」を恥じる気持ちは命乞いをする気持ちよりも強かった、そのあまりの誇りの高さに驚き胸打たれたのだが、なおも「なぜそこまでして文盲であることを隠すのか?」と疑問に思った。だが今回、問題は文盲を恥じたかどうかではなく、彼女が自分の責任を引き受けたことこそが大事だということが理解できた。映画を見て強く印象づけられたことは「責任」だ。人は自らの責任をどう果たすのか? ハンナは決して逃げない。彼女はユダヤ人見殺しの責任を問われたとき、懸命に抗弁したが、結局はその罪を引き受けたのだ。「あのとき、いったい何ができたのか? わたしは何をなすべきだったのか? わからない、わからない…」とうろたえるハンナ。しかし彼女は長い刑務所生活の中で、自分の果たすべき責任に向き合った。たとえ理不尽な裁きだったとしても、彼女自身の罪は、罪そのものはやはり存在するのだ。とすれば、潔く自分の非を認め罪を向き合ったハンナと、そのハンナを高みから裁いた人々と、どちらが人として高潔であったろうか?



 そして、ミヒャエルの情けなくも中途半端な態度が、戦後世代の困惑と「逃走」を代表する。あれほど熱愛したハンナから「返事を頂戴」と請われても一度も返事を書かなかった。面会にも行かなかった。彼は決着をつけられないでいる。ナチスの戦争犯罪を徹底的に指弾する戦後教育を受けた彼が、愛する女性の罪に向き合うときの驚愕と居心地の悪さ。彼は問い直す、自分たちの受けてきた歴史教育を。彼は朗読者でしかない。ハンナに本を読んでやる、媒介者なのだ。本とハンナをつなぐ、いわば図書館司書のような役目。しかし、司書には感情がないのだろうか? 司書は選書しないか? 司書は本を通して読者に何を訴えかけるのか? ハンナは変わっていく。獄中でミヒャエルのテープを何度も聴き直し、本をなぞり、文字を覚えたのだ。努力し変化するハンナに比べて、ミヒャエルはなんという空疎な生を生きてきたのだろう。結婚もしたし娘も生まれた。だが彼は妻に向き合うこともなく本心から愛することもなく人生の挫折者となっていくのだ。



 ハンナとミヒャエルはまさに自分の責任を引き受けその罪と向き合い償おうとする真摯な戦中世代と、彼らを糾弾することしかできなかった懐疑的な戦後世代の「白け」を代表していると言えるだろう。



 「あなたならどうしましたか?」と裁判長に問うハンナの台詞を読んだとき、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を想起した。わたしたちは現在から過去を一方的に断罪できるのか? ミヒャエルも同じ懐疑に苦しんだからこそ、彼の生は輝きを失った。ハンナを喪ったことは一つの「罰」なのかもしれない。