吟遊旅人ピピのシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。感謝。

万引き家族

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 6月3日の先行ロードショーで見たのに続き、7月21日に2回目の鑑賞。二回目でさらに完成度の高さに脱帽した。この上いっそう余裕をもって観賞するためには三回見る必要がある映画だ。とはいえ、そんなにハードルを上げたらいけないいけない。一回の鑑賞でも十分感動できる。わたしは一回目は涙しながら見ていたが、二回目は冷静に見ることができたので、感情を揺さぶられることがなくその代わりに理性が研ぎ澄まされる思いがした。
 巻頭、スーパーマーケットで万引きする父子の姿が映る。観客はハラハラしながらその様子を見守り、やがてまんまと盗みおおせた父子の姿にホッとする、という犯罪者への共振という事態から映画の世界へと引きずり込まれる。と思った瞬間に「万引き家族」というタイトルが現れる。上手い。
 是枝監督の脚本は緻密で隙がない。たったひとことのセリフで登場人物の過去や現在の立場・感情を観客に示す。この完成度の高さは「誰も知らない」のころから際立っており、「歩いても歩いても」では神業になっていた。本作でも背筋がゾクゾクするほど練りこまれた脚本に感動して嬉しくなる。
 万引き一家はおばあちゃんを筆頭に家族5人で暮らしていたところに、新たに一人、五歳の少女が加わる。ユリというその子は小学生の翔太を「お兄ちゃん」と呼び、すっかり一家になじんでいく。しかしこの一家が訳ありであることはかなり早くから観客に知らされる。五人で暮らしているおばあちゃんの家に来客(民生委員か?)が来て、「一人暮らしだと大変でしょ」などと言う。「息子さん、九州だっけ」などとも言う。だから、彼らの正体が種明かしされていく過程はそれほどスリリングではない。実は最後まですべてが明らかになるわけでもないのだ。なぜ彼らは大都会の片隅に一軒だけ忘れられたように建っているあばら屋に肩を寄せ合って暮らしているのか。ほんの少しの謎は残るが、多くを語らずにさりげなく見せていくその脚本と演出の見事さには、カンヌ映画祭パルムドールも当然と思える。

 この映画は日本の貧困を描き、家庭内暴力や家庭崩壊の様子をリアルに見せているので、一部の政治家は気に入らなかったようだが、「菊とギロチン」を見た後だと、大正時代のほうが今より遥かに貧しかったということに改めて思いいたる。貧困問題とはすなわち格差問題であり、社会構成員皆が等しく貧しければ貧困問題など発生しない。この映画ではその格差を視覚的に見せていく。たとえば一家のあばら屋の隣は空き地で、つまりここが地上げに失敗して取り残された土地だとわかり、その周辺は高いビルが囲んでいるため、その建物の高さの格差が明らかになる。この場面の俯瞰の巧みさには舌を巻く。この場面とはすなわち一家が隅田川の花火を見上げる場面なのだが、音だけが聞こえて花火そのものは見えない。家族が一人また一人と夜空を見上げ、その顔に光が当たる。この照明と撮影の見事さは、さすが近藤龍人撮影監督。室内の場面が多い本作で、近藤さんの技が冴える。絶対に撮影賞とれるよ、これ。
 「誰も知らない」でも本作でも感じることは、是枝さんのアナキストぶりだ。彼は国家や公的権力の介入を良しとしない。「誰も知らない」では養護施設で暮らすことを主人公の中学生が選ばなかったことを肯定的に描いているし、本作でも常識人ならケースワーカー児童福祉施設に連絡すべきだと考えるような解決方法を是枝さんは提示しない。虐待された幼女を「誘拐」ともいえるような手口で保護する主人公夫婦を是枝さんは温かい目で見つめている。警察に通報したり福祉施設に収容するのではなく、地域住民の手で子どもを育てていく。それが当たり前のやりかたなのだとさりげなく示している。つまり、権力の介在という「疎外」から遠く離れた地点を是枝さんは見ている。ただし、これは今の社会ではやはり犯罪には違いない。違いないから破綻する。
 ではラストシーンをどう考えるべきか。これはいつもの是枝節である。つまり、解釈を観客にゆだねている。いろんな人がこのシーンをどう見るか、十人十色だろう。わたしは一回目はこの映画がハッピーエンドかどうかは微妙だと思ったが、二回目にこれはハッピーエンドなのだと確信した。この物語が未来に向かって開かれているからだ。少年は「父」と決別し、その瞬間に父性愛へとなびく。愛と別れが同時に少年の胸に去来し、彼は大人になる。少女は何かを見つけて(何かを聴いて)ベランダから身を乗り出す。それは未来への投企なのだ。6歳にして彼女は実存をかけて外界へと身を乗り出す。なんという素晴らしいラストシーンだろう。これからどんな過酷な事態が待っているかもわからないが、それでも少女は未来に向かう。
 さて、この映画は労働映画でもある。主人公リリー・フランキーは日雇い労働者で、ある日、ビルの建設現場でケガをして帰宅する。「日雇いにも労災保険が下りるんだって」と妻の安藤サクラに告げるが、その後労災認定されなかったことがわかる。この場面でわたしの溶けかかった脳みそはフル回転した。業務上災害として認定されなかった理由は、「業務遂行性」と「業務起因性」のどちらかあるいは両方が成立していなかったからだろう。すると、休憩時間のケガだったのか? だとしたらあの場面がその伏線か?! などとあれこれ考えてしまった。この件、詳しい人はぜひ謎解きしてほしい。
 この映画は年金詐欺事件をヒントに作られたという。その点でももう一つ謎があって、なぜ樹木希林は年金を受け取ることができていたのか? 遺族年金か。だとしたらそれは元々誰の年金だったのか。離婚した夫の年金は受給できないはずなのに。。。。と、いろいろ話題は尽きない。先日この映画を語り合う飲み会の席上で、知人の年金機構職員がこの謎の年金問題に注目していて、大いに話題が盛り上がった。
 最後に、演技陣の素晴らしさに一言。いまさら褒めるまでもなく安藤サクラは天才である。子役二人もめちゃくちゃうまいし、目つきに感心する。リリー・フランキーの下品でやさぐれてそのくせ優しい男の情けなさも絶妙、柄本明の駄菓子屋の主人なんて最高にいいところを持って行った、という感じ。樹木希林はもはや人間国宝ですな。

 そうそう、音楽のことも語らなくては。ドップラー効果みたいな不安定な旋律がとても不思議な印象を残した。これもまた見どころ聞きどころの一つ。

120分、日本、2018
監督・脚本:是枝裕和、製作:石原隆ほか、撮影:近藤龍人、音楽:細野晴臣
出演:リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優池松壮亮、城桧吏、佐々木みゆ、緒形直人森口瑤子柄本明高良健吾池脇千鶴樹木希林

 

菊とギロチン

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 大正デカダンの時代、関東大震災直後の混乱した関東地方に女相撲の一座がやってきた。それを見た若きアナキストたちのグループ「ギロチン社」の一行は女相撲の虜になり、彼女たちと行動を共にしようとする。大正時代末期の猥雑でエネルギーにあふれた人々の狂宴を、「今作らなければ」という瀬々敬久監督が史実と虚構を交えて描いた大作だ。3時間を超える上映時間が短く思えるほど、波乱万丈の彼らの動向に目が釘付けになる。
 ギロチン社、古田大次郎、中浜鉄(哲)、黒パン、小作人社、、、といった大正アナキズムの文献は当エル・ライブラリーが所蔵している資料であり、なじみがあるが、わたしはそれらを執筆した人物については生身の人間としての感触をもてなかった。彼らに血と肉が付き、生き生きと動き出して笑ったり怒ったりわめいたりする様子を画面から受け取ることのなんという快感! これが映像の力なのだ。
 女相撲という興行と、実在したアナキストたちを組み合わせるという驚くべき発想で練られた本作は、瀬々監督が二十代のころから温めていた題材なのだという。革命だ、世界を変えるんだ、自由平等な社会を築くんだ、と理想だけは高いが、その実彼らのしていることは企業への強請りタカリであり、強奪した金を酒と女郎屋につぎ込む自堕落な生活。詩人の中浜は文才だけはあるが、アジビラを書き散らしては銀行強盗だの恐喝だのを繰り返し、挙句に梅毒に感染する。この中浜を演じた東出昌大が一皮むけた演技を見せてくれて、ほんとにどんどんうまくなるよ、素晴らしい。古田大次郎を演じたのは寛一郎という新人俳優。誰かと思えば佐藤浩市の息子だそうな。非常に繊細な役をイメージそのままに演じていて、これは監督の指導がよかったんだろうと思わせるものがある。

 映画は巻頭からしばらくはギロチン社の若者たちのパワーが強すぎてセリフが聞き取りにくい部分があり、さらにカメラが微妙に動いて見づらい。しかしこの若干の苦痛を乗り越えると、もう後は目くるめく映像世界へと引き込まれていく。要するにギロチン社のアホみたいな革命ごっこへの違和感が消えていくのだ。あほみたいだけれど命懸けで革命を夢見ていた大正期のアナキストに、出来の悪い息子を愛するように監督が愛情を注いでることが見て取れる。そして、ギロチン社はおれだ!と世界の中心で叫んでいるこの映画についていけるかどうかの分かれ目が到来する。

 やがて主演はギロチン社じゃなく女相撲の新人花菊であることが判明する。彼女は夫の暴力に耐えかねて家出し、女相撲の一座に入門した。「強くなりたい」というその強烈な願望は、この時代の女たちの腹の底から出た思いだろう。

 女相撲一座の巡業についていくギロチン社の中濱鐵と古田大次郎は、それぞれが力士に惹かれていく。中濱が惚れた相手は朝鮮からやってきた元遊女の十勝川。純情な古田はあどけなさの残る花菊に惹かれるが、遊び慣れている中濱と違って花菊に近づくことができない。後半、この二組のカップルの行方がどうなるのかと固唾を飲んで見入ってしまう。
 3時間の映画にはいろいろ見どころがあって、言わずもがな、相撲興行は大変興味深い。一座は町や村を巡り、宣伝のために鳴り物入りで練り歩いていく。その様子や、土俵入り、歌(甚句)、といったフォークロアの部分が映画で初めて見るものばかりで、よくぞ時代考証ができたものだと感心する。女相撲はまた「エロ」と眉を顰めて語られ、風紀紊乱の咎によって常に警察の臨検・上演中止にあっていた。そのような時代の匂い、また大正から昭和へと向かい、社会運動が大弾圧を受けて軍部が暴走する時代へと移り変わる様相がこの映画の中でもしっかりと描かれている。「天皇陛下万歳」の連呼はやや過剰演出に見えるが、映画は後半になるにつれ暴力が横溢し、血濡れたものとなり、不気味な「天皇陛下万歳」がこだまする。中濱鐵が「満州に差別のない平等な社会を作る」と目を輝かせて語るとき、その後の歴史を知っているわたしたちは、満州国建設が五族協和の名のもとに押し進められたことを想起する。アナキストの夢はかくして大日本帝国にからめとられていく。。。。
 アナキストを描いた本作こそがまさにアナーキーな力に満ち、コメディタッチからアクションやスリラーまで縦横な作風で観客を魅了する。音楽も印象深く、朝鮮の伝統芸能である農楽も取り入れられて、画面に力強さとリズムを付加している。浜辺で女相撲の一行が踊りに興じるシーンは名場面の一つと言えるだろう。
 わたしの友人がエキストラで農婦役で登場するというので、どの場面なのかと一生懸命目を凝らしていてとうとう分からなかった。肝心の主人公たちそっちのけで画面の背後のほうばかり見ていたから、疲れてしまった(苦笑)。彼女の顔は識別できなかったが、最後にクレジットされていた出資者一覧のなかにその名があったのが嬉しかった。そう、この作品は製作会社が資金を提供しなかったため、カンパを集めて作られた自主製作映画なのだ。こういう破天荒な映画がなかなか作られない日本映画界に寂しさを感じるが、ともあれ完成したことは慶賀かな。あとは一人でも多くの人に見てほしい。

189分、日本、2018

監督:瀬々敬久、脚本:相澤虎之助、瀬々敬久、撮影:鍋島淳裕、音楽:安川午朗
ナレーション:永瀬正敏
出演:木竜麻生、東出昌大寛一郎韓英恵、渋川清彦、山中崇井浦新大西信満嶋田久作菅田俊

 

 

グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札

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 王室ものというのはある意味手堅くヒットが狙えるから映画にしやすいんだろう。とりわけグレース・ケリーのようなシンデレラ物語となった美しすぎる女優・王妃の物語なら当然、絵になります。ニコール・キッドマンはかなり雰囲気が似ているし、背が高くてスタイルがよいから何を着ても似合う。美しい。王宮も素晴らしい。というわけで、目の保養になりました、というだけだったような気がするが、彼女が国王の政治に口出しをして夫である国王から「子どもたちの世話をしろ!」と怒鳴られるシーンがなかなか迫力あってよかった。やはりどこの王室も女は黙ってろという時代だったのだ。今だってそうだもんね、特に日本は。
 それにしても全く知らなかった事実は、モナコが事実上フランスの保護下にあるということ。ガスも電気もインフラはフランスから供給されている。これでよく独立国のメンツが保てると不思議だ。そこに王家の内紛もからみ、結構サスペンスフルにお話は進む。どこまで史実なのかはよくわからないが、ヒチコックがいつまでもグレース・ケリーに執心して映画出演のオファーをかけていたというのが面白い。
 人間模様の描写はそれなりに興味深く、海運王オナシスやその愛人だったマリア・カラスが何度も登場するなど、有名人のわき役も個性があって映画的なきらめきがあるのだが、肝心のグレース公妃の一世一代の演説がなぜモナコを救ったのか、理解できなかった。ヒチコックの「マーニー」製作の裏話としては面白かったけどね。(U-NEXT)

GRACE OF MONACO
103分、フランス/アメリカ/ベルギー/イタリア、2014
監督:オリヴィエ・ダアン、脚本:アラッシュ・アメル、音楽:クリストファー・ガニング
出演:ニコール・キッドマンティム・ロスフランク・ランジェラパス・ベガ、パーカー・ポージー

最高の花婿

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 フランスって多国籍多民族の移民国家なんだとつくづく思う。だからこういう映画も作れちゃう。

 田舎の豪邸に住むクロードとマリーの夫婦には才能にあふれた美しい娘が4人いて、みなパリに住んでいる。「娘たちをパリなんかにやったからよ」とマリーがこぼしているのは、娘3人がそれぞれ異教徒と結婚してしまったことを嘆いているのだ。長女はムスリムと、次女はユダヤ人と、三女は中国人と結婚してしまった。自宅の近所の壮麗なカトリック教会で娘を挙式させるのがマリーの夢だったのに、それはかなわない。いやいや、やっと四女が結婚することになった。相手はカトリック教徒だというではないか! 万歳、さすがは末っ子、えらいわー。と喜んだのもつかの間。実はその相手はアフリカ人だったのだ。。。。。
 というコメディ。娘の夫たちもあけすけに対立し口論しもめ事が絶えないのに、いつのまにか仲良くなっていたりする。いつも寄ると触ると喧嘩になるくせに、なぜかしょっちゅう一緒にいる3姉妹とその夫。こういう大家族の絆というか付き合いというか、揉めながらも仲がいいというのが実に楽しく開放的だ。クロードとマリーは保守派だが、人種差別者ではないと何度も何度も何度も自ら強調している。しかしそのリベラルぶった態度に一撃をくらわされるのが四女の結婚だった。

 そうなのか、異教徒でも異人種よりはマシ、ということなのかな。というか、黒人がもっとも差別されているということなのね。かつての植民地からやってきた誇り高い婿とその父は早速にクロードと大喧嘩を始める。けれど、子どもたちを愛する気持ちには嘘偽りがないから、どこかで妥協点を見つけるしかない。面白いことに、今まで喧嘩ばかりしていた三人の婿たちが四女の結婚には一致団結して反対するところだ。共通の敵が見つかれば団結するのか。これは現実社会がそうだから実によくわかる理屈だ。 

 次女がすごい美人。四姉妹とも美人だけど全員が違うタイプなのでとても本物の姉妹には見えない。とにかく最初から最後までずっと笑っていた。笑いながらいろいろと考えさせられる作品。お薦め。(U-NEXT)

QU'EST-CE QU'ON A FAIT AU BON DIEU?
97分、フランス、2014
監督:フィリップ・ドゥ・ショーヴロン、製作:ロマン・ロイトマン、脚本:フィリップ・ドゥ・ショーヴロン、ギィ・ローラン、音楽:マルク・シュアラン
出演:クリスチャン・クラヴィエ、シャンタル・ロビー、アリ・アビタン、メディ・サドゥン、フレデリック・チョー、ヌーム・ディアワラ、フレデリック・ベル、ジュリア・ピアトン、エミリー・カン、エロディ・フォンタン

 

バーフバリ 王の凱旋<完全版>

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 さすがに長いわー。エンタメ的にはこれ以上ないという無茶苦茶なサービスぶりだけれど、英雄としてバーフバリを称えれば称えるほど、だんだん虚しさが募ってくる。製作者の意図を超えて立派な反戦映画になっているではないですか!(んなわけないか)
 前作の続きがまたまた壮大なスケールで語られる。前作の見せ所は集団戦だったが、今回はさらにそれに加えて一騎打ちの場面が延々と続く。不死身の男二人が、普通なら100回は死んでる死闘を繰り広げ、もうお腹いっぱいです、許してくださいと言いたくなるほどのスペシャルバトルぶり。船は空を飛び、人間は全身武器と化し、背中に背負った弓矢は何本放っても無くならない、すべてが地球上の物理法則を無視して展開する。前作では人海戦術的に不利な自軍の籠城戦を勝ち抜くために先代バーフバリが知恵を使うところが見せ場だったのだが、今回はそういう頭を使う場面がないのが残念だ。
 その代わり、爆弾も火薬も重火器もない時代の戦争に見せ場を作るために考え付いたのが、人間噴射機! あり得ない作戦ばかり飛び出すのでもう笑ってしまうしかない。前作に続いて見せ場に過剰サービスするスローモーションも既に慣れてしまったので違和感なし。もう、この世界観に漬かってしまうところが恐ろしい(笑)。
 不思議なのは、国王の権力をも凌駕する国母の権威。なんでこんなに女が強いの? これ、インド伝説にそのまま則っているのかそれとも21世紀の映画として政治的正しさを主張するためなのか、どっち? 
 カッタッパ役の役者をずっとベン・キングズレーだと思い込んでいたわ!(←あほ

BAHUBALI 2: THE CONCLUSION
167分、インド、2017
監督・脚本:S・S・ラージャマウリ、音楽:M・M・キーラヴァーニ
出演:プラバース、ラーナー・ダッグバーティ、アヌシュカ・シェッティ、ラムヤ・クリシュナ、ナーサル、サティヤラージ、タマンナー

 

告白小説、その結末

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 次回作が書けなくてスランプに陥る女性作家のもとに熱烈なファンを自称する美しい女性が現れた。彼女の名前は「ELLE(彼女)」。エルもまたライターだ。ただし、エルはゴーストライターで、他人の自伝を書いているのだという。いつのまにかすっかり作家の信頼を得たエルは徐々に作家を支配するようになり・・・
 というような話はいくつかデジャヴュに襲われるようなストーリー展開。典型的には「ミザリー」。ほかにもこういう話はいろいろあったような気がする。
 本作の主人公である作家の名はデルフィーヌ。夫とは円満な別居生活で、彼女はその距離感を楽しんでいるが、実はそのことがデルフィーヌの孤独を高めていることに本人は気づいていない。熱烈なファンのエルはデキる女なので、デルフィーヌのスケジュール調整やメールの代理返信を行なったりして、もはやデルフィーヌの生活の切り盛りは全部エルが行うようになっていく。このエルをエヴァ・グリーンが演じているというのがぴったりのキャスティングだ。頭がよくて美しく、謎めいていて恐ろしい。取って食われそうなほどにこちらの心をわしづかみにしてくるエヴァ・グリーンの瞳が不気味だ。スレンダーな長身もまた格好よくて、ウォッカやワインをぐいぐい飲む様子もほれぼれするような女なのだ。
 映画の前半はそんなエルにデルフィーヌがどんどん惹かれていき、依存していく様子が描かれる。やがてデルフィーヌがケガをしたため、エルは郊外での静養を持ち掛ける。舞台がパリから郊外の別荘に移ってからがいよいよオカルト風味を増していく。エルの運転で郊外へ向かうその道すがらに起きるちょっとした「事件」が不穏な空気を濃くする。観客はそろそろ気づくのだ、「これはおかしい」と。そして別荘でさらに恐怖がボルテージを上げて徐々にデルフィーヌに襲い掛かる。
 さすがにポランスキー監督は観客を追い詰め怖がらせる技に長けている。音楽も絶妙に恐怖をそそる。エルは何者なのか? 彼女の狙いはなんなのだろう。復讐か、自己顕示欲か、それとも…?
 最後のシーンでネタが明かされるが、つじつまの合わない場面がいくらでもあったことを思い出す。でもそんなことはどうでもいいのだ。これはポランスキーの作品なんだから。緻密なサスペンスではなく、心理サスペンスであり、「怖がること」が観客にとって大事なのだ。なぜ怖がることが必要なのだろう。なぜわたしたちはサスペンスが好きなのだろう。それは、主人公デルフィーヌと同じくわたしたち観客もまた日々ストレスに押しつぶされそうになり、常に前進することを強いられ、疲れ果てているからだ。ここではないどこかに行きたい。今とは違う人生を送りたい。今の自分よりももっと優秀な自分になりたい。その欲望がなくならない限り、この映画を観続ける人は絶えないだろう。

D'APRES UNE HISTOIRE VRAIE
100分、フランス/ベルギー/ポーランド、監督:ロマン・ポランスキー、製作:ワシム・ベジ、原作:デルフィーヌ・ド・ヴィガン『デルフィーヌの友情』、脚本:オリヴィエ・アサイヤスロマン・ポランスキー、撮影:パヴェウ・エデルマン、音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーンヴァンサン・ペレーズ、ジョゼ・ダヤン、カミーユ・シャムー、ブリジット・ルアン

 

空飛ぶタイヤ

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 見ごたえのある企業犯罪追及社会派作品。主人公の中小企業社長が正義のために闘う姿よりも、大企業の末端で出世を狙いながらうまく立ち回る一癖ある正義派のほうが魅力的だ。
 物語のもとになった事件は三菱自動車工業リコール隠しであることは言を俟たないが、わたしはあの事故や事件が数年前のことだと思っていたのに、調べてみたらすでに14年も前のことだったのだ! 光陰矢の如し。
 2004年に実際に起きた事件は三菱製トレーラーのタイヤ脱落事故によってタイヤに直撃された若い母親が亡くなった、というもの。ベビーカーを押して歩いていた29歳の母親は子どもたちと一緒に事故に遭い、幸い幼い子どもたちは軽傷だったが、母親は即死した。映画ではほぼ同じような状況を描いているが、事実と映画が異なる点は、事件の真相究明のために運送会社の社長自らが巨大企業に対して闘いを挑んだことだ。タイヤ脱落は整備不良が原因と疑われ、中小企業の赤松運送は神奈川県警の家宅捜索を受ける。二代目社長はイケメンで長身のかっこいい長瀬、じゃなくて赤松徳郎。いやほんま、長瀬智也、かっこよすぎるやろ。中小企業の社長には見えません。事故後には得意先から顧客契約を切られ、経営危機に陥る赤松社長の苦悩は深い。長瀬智也、映画の中ではずっと眉間にしわを寄せ続けていたような気がする。
 赤松社長は事故原因が自社の整備不良ではなく、自動車メーカーのホープ自動車のミスであることを確信するが、相手は財閥系の大企業。とても歯が立たない。それでも決して諦めることなくホープ自動車に食い下がる赤松。対して、ホープ自動車のイケメン課長沢田(ディーン・フジオカ)は赤松を鬱陶しがって会おうともしない。ところが沢田は同期の友人である品質管理部の小牧から自社内の不正を知らされて愕然とする。。。。
 登場人物がやたら多くて、原作では70人も登場するらしい。映画でも20人は居たように思うが、そのいずれものキャラクターがちゃんと描き分けられていたところが素晴らしい。ほんの数行のセリフしかないホープ銀行頭取にまでその人物像がわかるような演出がなされていて、この映画の作りこみの良さに感心した。

 本作の製作陣には松竹社会派エンタメ作の系譜を見事に受け継ぐ作品だという自負があるのだろう、鉄壁の脚本と言える。なんといってもわかりやすさがまず挙げられる。やたら込み入ったストーリーをこねくり回すのではなく、多くの登場人物に持ち味がはっきりしたキャラを与える。主人公を徹底的に窮地に追い込む。あからさまな正義の味方はおらず、主人公以外はみんな腹に一物を抱えている。自己保身、出世欲、生活保守主義、罪なき犠牲者の位置取り、という人々が大勢現れてくるのだが、ただ一人主人公の赤松社長だけがすがすがしく苦悩する。
 「中小企業をなめんなよ!」と赤松社長は吠える。まだ若き二代目社長は、たぶん先代のようなワンマンではないのだろう。創業者とは違う二代目の苦悩というのもありそうだ。わたしは身近に何人も二代目社長を見ているから、彼らが創業者のアクの強さを持っていないことを常々感じる。マイホームパパであるところもこの赤松の魅力だ。赤松の妻役のフカキョンがいったいいくつになったの、いつまでも若いねえ。昨今の作品らしく、ちゃんとジェンダーバイアスに配慮してあるセリフにも微笑してしまった。
 この映画の登場人物たちは団結して巨悪に立ち向かったわけではない。それぞれが少しずつそれぞれの思惑に従って「小さな正義」を実行したに過ぎない。心の底からの正義感であったかどうかも怪しい。所詮は組織のコマであり社畜に過ぎないという自嘲気味の沢田課長に至ってはニヒルな二枚目ぶりが板についていて、こういうちょっとワルっぽいヒーローはわたしのタイプだなぁとうっとり。

 そういう点でもっとも単純な正義の味方は赤松社長。彼は「俺が闘わずに誰が闘う!」と啖呵を切って社員の前でアジテーションするところなんか、50年前の全共闘みたいな。コンプライアンス内部告発、企業責任、といった昨今よく目にし耳にする言葉が飛び交う映画だった、間違いなく働く人々を描いた労働映画である。残念ながら労組の姿が一向に見えなかった。財閥系の大企業にはほとんどユニオンショップ制の労組があるはず。彼らの姿も描いてほしかった。 
 ところで、主役二人の身長が高すぎて、画面作りには苦労したんじゃないかと想像する。事故犠牲者の夫の身長が低いので、これも計算のうえなのか、面白い効果が出ている。犠牲者が「加害者」を糾弾するときの身長差、「加害者」が被害者に詫びるときの身長差が画面の中で強調されている。

 ところで本作は図書館映画の一つと言える。過去の事故の記録を調べるために、ある登場人物は図書館へ行って新聞記事を調べてコピーを取ってきた。みなさん、図書館を利用しましょう。

120分、日本、2018
監督:本木克英、エグゼクティブプロデューサー:吉田繁暁、原作:池井戸潤、脚本:林民夫、音楽:安川午朗
出演:長瀬智也ディーン・フジオカ高橋一生深田恭子寺脇康文小池栄子阿部顕嵐ムロツヨシ浅利陽介津嘉山正種柄本明佐々木蔵之介津田寛治笹野高史岸部一徳