ここまでやってもらえば、もう文句なし! 一難去ってまた一難、どころの騒ぎではない、次々と襲いかかる危機また危機! これはいいですねぇ。ここまで徹底的に地球を破壊していただければ、破壊されたほうも本望というもの。いやぁ、これまで各種の映画で地球は壊滅してきましたが、この映画と「ディープ・インパクト」が双璧ですな。
この映画を見ていると、「地球最後の日には誰と一緒にいたいか」という問いが頭をもたげる。この映画がパニックを描くだけではなく家族愛をこれでもかと渾身をこめて描いていることの意味するところは何かを思うとき、保守反動の家族回帰とは違うものもまた感じてしまう。そして、すっと感情移入できるものがこの映画にはある。あほくさくも単純な物語なのに、妙に心にしみいるのはわたしが歳を取ったからなのか、それとも子どもたちの巣立ちが近いからなのか…? わたしは本人が望むなら、という条件付きで、地球最後の日には子どもたちと一緒にいたいと思う。では年老いた両親は放っておくのか? 両親とて、子ども達――つまりはわたしと弟――、そして孫達と一緒にいたいと思うだろう。そうなると、大家族になるな。さらにいえば、子ども達はまた友人や恋人と一緒にいたいと言い出すかもしれない。あ、友だちの輪が広がるなぁ。そうなると、地球最後の日に一緒にいたい人は芋づる式に増えていき、結局人類の大部分がそこに含まれてしまうのではなかろうか? もしそうなら、そういうふうにみんなが思っていれば、人類はみなきょうだい、という美しい絵が完成するではないか! などと能天気なことを考えてしまった。
ところで、この映画で誰が生き残って誰が死ぬかを分析すれば、ハリウッド映画の価値観、ひいてはアメリカ人の多数が望む価値観がよくわかる。
<ネタバレ>
主人公がどうやっても死なないダイハード、というのはアメリカ人の安心ヒーローものの典型。しかしこの映画では父は家族を守って犠牲になる、というのが美談なのだ。父は死なねばならない。ところが死ぬのは父ではなく継父(になるはずだった男)である。子どもたちの母親を挟んで恋人と前夫、という図式では男が余っているのだから、どちらかが死なねばならない。そこでアメリカ人たちが選んだ生き方は、新たな家族作りよりも古い家族への回帰だ。この保守化が興味深い。そして、母(前妻)は恋人が死んだというのに前夫が生きていればそれでさっさとまたよりを戻してしまう。この単純さには呆れる。
一方、強欲なロシア人は家族を守って死ぬ。愛人も死ぬし、愛人の愛人も死ぬ、要するにロシア人は死んでもいいのである。
アメリカ大統領は老政治家だから、自分だけ助かろうとしてはいけない。その代わりに娘が恋人を得ればよしとしよう。優秀な種が残って子孫を増やしてくれるだろう。
かくして人類は発生の地、アフリカから再生する。めでたしめでたし。それにしてもいきなりチベットの高地へいって、誰も高山病にならないのが不思議だった。
2012
158分、アメリカ、2009
監督: ローランド・エメリッヒ、製作: ハラルド・クローサーほか、脚本: ローランド・エメリッヒ、ハラルド・クローサー、音楽: ハラルド・クローサー、トマス・ワンダー
出演: ジョン・キューザック、キウェテル・イジョフォー、アマンダ・ピート、オリヴァー・プラット、タンディ・ニュートン、ダニー・グローヴァー、ウディ・ハレルソン