吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

市民ケーン


本作を見る直前まで中村秀之さんの「市民ケーン」(『映画の政治学』所収、別エントリー参照)を読んでいたため、どのようなマスメディア論的読みができるかと思っていたのだが、全然そういうところにはわたしの意識が働くことはなかった。むしろ、人間ドラマというか恋愛ドラマのほうに心が傾き、映画のなかにのめり込んでいった。

 亡くなってしまった大富豪新聞王を回顧するニュース映画を冒頭で延々と映し出し、やがて本文へと入っていくこの構成のたくみなこと! 中村秀之さんはこの冒頭のニュース映画こそ、「市民ケーン」全体のポストモダン的本質を顕わにする部分だと指摘している。虚実が入り交じるこの巻頭の部分で、観客はニュース映画こそが作られたものであり、この映画の「本文」に描かれるケーンの姿こそが真実だと思わされる。だが、ラストで確かにその「真実」を描いたはずの「市民ケーン」という映画じたいが実は真実をつかみそこなっていることを知らされるのだ。謎を牽引する言葉、ケーンの死に際の最後の「薔薇のつぼみ」という言葉の謎を追う一人の記者。そして最後にかれがたどり着いた「薔薇のつぼみ」の真相が、実は真相でなどなかったという「衝撃のラスト」。

 わたしはずっとこの「薔薇のつぼみ」という言葉の謎は「マクガフィン」(@ヒチコック)だと思っていた。じっさい、マクガフィンには違いない。だが、そのマクガフィンにウェルズ監督は二重の意味を持たせた。ということは、実はマクガフィンではないのだ! 何重にも転倒させられる本作の巧みな構成にこそ天才ウェルズの才能がいかんなく発揮されている。もちろん映像は素晴らしい。今となってはさほど珍しいテクニックではないが、これを見た公開当時の人々はさぞや驚愕しただろう。

 華麗なるカメラワークばかり論評されることが多い本作だが、わたしはここに描かれた男性の支配的な愛情にとても興味を惹かれる。映像のテクニカルな部分だけではなく、脚本が優れているので、ありきたりなように見える男女の愛憎劇が巧みに観客の心を掴む。若くして大富豪となり、新聞社を買い取って好きなように権力を振るうケーンだが、彼は生涯求め続けた愛を結局は得ることなく孤独に死を迎える。その憐れさが最後に強烈な余韻を残す。

 ケーンは女性たちを愛した。しかしその愛は、「君に愛を与えよう、そのかわり私を愛しなさい、私の望むように」というマッチョなものだ。これは多くの男性が持つ愛情のありかたではなかろうか。男が女を愛するとき、その見返りに求めるものは女が彼の思うままになること、女が彼の望みのままに彼を愛し、女が彼の望みの性格・才能・気遣いを見せること。ケーンの愛情はまさにそのようなものであった。彼が大富豪であり権力者であったからこそその側面がわかりやすく見えるのだが、おそらく男の愛情は(何人かの女の愛情もまた)そのような権力欲に裏打ちされたものではなかろうか。それを決して責めることはできない。愛とは本質的に権力をふるうものだからだ。だが、その権力行使の結果は惨めな愛の敗残しかない。

 ところで、本作と並んで映画史上に輝く名作といわれている「第三の男」だが、オーソン・ウェルズが出演しているという共通点を除けばまったく作品の質は異なる。「第三の男」など足下にも及ばない。カメラ、脚本、演技が三位一体で魅せてくれる「市民ケーン」は傑作です。

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CITIZEN KANE 上映時間119分(アメリカ、1941年)
製作・監督:オーソン・ウェルズ、脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ、撮影:グレッグ・トーランド、音楽:バーナード・ハーマン
出演: オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、ドロシー・カミング、エヴェレット・スローン、アグネス・ムーアヘッド