吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

「この人の閾」 新潮文庫

この人の閾
 保坂 和志著 : 新潮社 1998

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 保坂の小説に何かドラマティックなことを予想したり期待したりするのは間違いだということはあらかじめわかっているから、何が起こらなくてもだらだらしていても、それ自体にはもう驚かないし、むしろわたし自身の保坂受け入れ態勢は「準備OK」状態に入っているものだから、かえってこの小説のようにきちっとまとまってすごく中身が濃いと「おおっ、そう来たか、保坂さん。なかなかやるね」という望外の喜びに小躍りしそうな気分。

 保坂の作品にはいつも猫が出てくるが、今回は犬だ。この犬がよい。存在感があって、かわいい。特に、「尻尾をちぎれるほど振る」っていう描写はありきたりで何気なくても、でもこの情景を写すにはたぶん一番いい言葉が選ばれているってすんなり納得できる。要するに、文章がじわじわっと読み手にしみてくるのだ。だから、ものすごくぴったりきて、着古したジーンズの心地よさと同じように快感を得ることができる。

 この本は短編集だから、表題作以外にも3編が収録されているが、はっきりいってあとの3編はどうでもいい。敢えて読む必要はないと断言しておく。というか、「この人の閾」、これだけでじゅうぶん堪能してしまえるのだ。しばらくじーーんと保坂の言葉に酔わされていたい。こんなふうに脱力しつつ読者に力を与えることができるって、才能だと思う。うん、才能。いいなあ。

 短い小説の中に、保坂は日常生活でわたしたちが垣間見る思考の芽を徹底的に拡大し言葉を与えてくれる。薔薇はリルケが「美しい」と言ったから美しいのだ。日常生活の中心のなさは保坂がそれを教えてくれたから気づいたのだ。
 「ぼく」という主人公が久しぶりに学生時代の女友達宅を訪ねて過ごす午後のひととき。そこに庭があって二人で雑草を抜いて、犬がいて尻尾を振り、友達の息子が小学校から帰ってきて、なんということもない会話が続く。この小説では、なんということもない普通の家でそれぞれの登場人物がどういうわけかぴたりぴたりとまさにそこにいなければならないかのように配置されている。

 なんということのない会話や「ぼく」の心の声はいろんなことを言う。
「働くことに思想はいらない。思想がなければ怠けられない」
「過去を知るものは変化を良しとする社会から煙たがられて、追い出される」
「それが”愛”なのよ。ダンナは給料を運び、あたしはダンナを運ぶ」
「主婦には中心がない。主婦というのは自分以外の家族のタイム・テーブルの組合せの合い間に主婦としての仕事や自分の睡眠をつくり出していく」

 市井の人々が発する「格言・名言」の数々に、日常会話や日常の思考の中にこそ哲学の神は宿っていると思わされる。そしてそれはわたしの日常生活でもあることにふと気づく。この小説を読んだあと、庭の雑草を抜いた。保坂の小説にシンクロしている心地よさを指先に感じながら、一本ずつ草を抜いた。かの小説の登場人物たちのように。


 行きつけのおしゃれで小さな落ち着いた飲み屋でカウンターに向かい、酒好きのマスターやママとじみじみ話す。上品で芳醇な純米酒を噛むように味わいながら、肴はぷりぷりの白身魚の刺身を、歯と舌を歓ばせながら味わう。え? 何の話かって? いえ、この小説は『センセイの鞄』ではないので、飲み屋の話はでてきません。保坂の小説を読んだあとの幸せな気分を例えただけです。