吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

日常と非日常の間

わたしの最近の生活は、仕事・家事・育児・映画・フィットネスクラブ・読書の組み合わせで回転している。たまにコーラスに参加する。その合間に飲み会だの食事会だのが勃発的に出現する。さらにその合間を縫ってネットサーフィンしHPを更新する。そのうえ気が向いたら密かに小説を書く。

 これが働く主婦の日常というものだが、考えてみればつまらない日常だ。何ももの珍しいことはないし、ドラマなんて起きないし、趣味は?と訊かれても答は「映画と読書」という口にするのもはばかられるほどありきたりのことしか言えない。つまり「無趣味」ってことだろうか?

 そんな日常は耐えるにしのびないものだろうか。わたしは案外楽しんでいるけど。そんな日常に耐え切れなくて若者たちはキレてしまうのだろうか。
 
 最近なぜか「日常」という言葉に敏感になっている。ここのところ立て続けに読んだ本に「日常」への言及が目立つ。『日常・共同体・アイロニー』なんていうそのものずばりの本も読んだし。もっとそのものズバリなら宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』(1995年)なんていう本もあったし。 

 宮台真司仲正昌樹の対談『日常・共同体・アイロニー』は前書きと後書きがいちばんおもしろい。わたしは大笑いしながら読んだ。
仲正さんは自分たちのことをこう評価する。

 「非日常生に惹かれる若者たち」のオピニオン・リーダー的な役割を演じている宮台さんと、わかる人だけわかればいいという調子でちまちま皮肉ばかりいっている私とでは、体質が根本的に違うという認識(まえがき)

 仲正昌樹さんは元統一教会信者だ。東大の1年生だったときに入信して11年も信者だったというから、なかなかのもの。そのくせ自分は超越系が苦手だという。この人はほんとに変人で人付き合いが下手な人みたいだ。宮台さんの後書きによれば、4回の対談のうち、1回目は一度も二人の視線が合わなかったそうだ。それが回を重ねるごとに数秒ずつ視線が合うようになったらしい。

 まあ、とにかく、自分の対談相手を誉めているのかけなしているのかよくわからない前書きをわたしは笑いながら読んだ。仲正に対して「認知的不協和」を感じていたという宮台は、じっさいに対談してみてそれが徐々に解消していったという。仲正の著作は、「思想史について語るときはじつにブリリアンドなのだが、時事的現象について語るときには実存的バイアスによって偏った議論になりがち」だという評価をくだしている。これは貶しているのではないそうだ。
 この後書きに宮台は仲正の人物論を事細かく書いていて、それがおもしろい。仲正昌樹という人物像を描きつつ、左翼(正確には「サヨク」)批判へとつなげる論には「なるほど」と首肯するものがある。

 本文に直接関係ない引用が続いてしまったが、以下にこの対談から気になったところだけをメモしてみよう。

 アイロニーとは皮肉のことだ。アイロニストは皮肉屋のことだ。と、わたしは単純に考えていたのだが、彼らのいう「アイロニー」とは言説のメタ化のことのようだ。つまり、「わたしはこれこれについてワンパターンでよくないと思う。と言う、このわたしの言説じたいもワンパターンだということを知っている」というようなこと(らしい)。アイロニストには議論の着地点がない。自己言及を繰り返すだけだ。それはルーマンの社会理論にも通じる。

 近代のアイロニーはどうやって乗り越えるのか? ローティのように「近代を超えるには徹底して近代であるほかない」というべきか? 「外部なんてない」というのが宮台の主張だ。

 心情においてポストモダニストである人間がいるのはよい。私も近代の限界を超えたいと思う。でも、だったら「近代には外がある」などと幼稚園児の思考を吹聴するのでなく、近代のオルタナティブな使用を考えてもらいたいのです。(p122-123)

 アイロニズムシニシズムに滑り落ちやすい。不徹底なアイロニズムは「だったら何でもありじゃん」という発想に陥る。なんでもありなら、イスラム教徒とキリスト教徒の間に線を引いてイスラム教徒を敵視したっていいやんか、と。シニシズムに対してはアイロニズムのワクチンを注射してやらないといけない。というのが宮台の主張。

 仲正は「日常性」という言葉が大嫌いだそうだ。

 左翼が衰退すると、まるでマルクス主義を薄めたようなかたちで、やや左翼的な傾向のある社会学が「現実」にスポットを当て出しました。あなたや私をふくめ、いろいろな人たちがいる。そして私たちは、普段は気づかない「日常性」のようなもののなかで生きている。「日常性」を見直すことは、私たちの「現実」を見直すことであり、社会の問題点を浮き彫りにすることである、といった言い方をします。粗っぽく要約すると、問題関心が、マルクス主義によって哲学的に裏打ちされた左翼運動の「現実」から、日々反復される「日常性」へとシフトしたのだということができるでしょう。(p225)

 仲正が『終わりなき日常を生きろ』をネタに、「日常性」について宮台に質問し、迫る。切り返す宮台は「これはもっとも話しにくいテーマだ」と苦笑しつつ、社会学における日常・非日常の定義から話を始める。

 社会学のなかで「日常と非日常」という概念を明示的に用いたのは、ヴェーバーのカリスマ概念とデュルケームの集合的沸騰概念。カリスマとは人のことではなく、性質のこと。具体的には、金力や暴力といった社会的属性に還元できない、非日常的な資質。

 聖なる内面世界と俗なる行動世界という二元論が近代の政教分離の起源だ。
 「社会が宗教よりも大きい」というのが近代社会の本義となったが、すると問題が起きる。「宗教が社会よりも大きい」からこそ宗教なのだ。なぜ社会が存在するのか、なぜ世界が存在するのかに答えてこそ宗教なのに、宗教が社会の枠内に収まってしまうと、社会で失敗した人間には宗教的救済がなくなってしまう。

 ……というような話から始めて、自分の中学高校時代の話へと振り、あとは『サイファ覚醒せよ!』に書いてあるような内容へと続く。仲正の質問への答になっているのかいないのかよくわからない。

 仲正は、日常と非日常は立場によって逆転することがよくあるという。機動隊に石を投げている左翼とブルセラ女子高生が例示される。やっている本人には「日常はこんなもの」という感覚があるかもしれないが、第三者にはそれが「非日常」に映るだろうし。

 仲正は統一教会の信者だったとき、自分が非日常の側にいるとは思っていなかったという。信者たちは外の人より少しだけ先に行っているという自覚があった。世間より少しだけ先に行っているという感覚が大事で、現状と乖離しすぎると布教の原動力にならない。この、「少しだけ超越している」というのが危ない。

 宗教の布教にとって大切なもう一つの戦略は「覆い隠されていた身体性の発見」@宮台(p254)だ。ドラッグを使ったり洗脳プログラムを使ってトランス・酩酊状態を生み出して身体性を拡張し、信者獲得へとつなげる。

 近代成熟期には、抑圧されてきた身体性の拡張可能性に人々の意識が向く。それは決して「近代の外」に出るものではない。同時に、社会システムはかつてほど身体性の拡張を抑圧する必要もなくなる。資本主義メカニズムが一定程度以上のプレゼンスを獲得すると、そこから逸脱すると生きていけないという不安を人々が感じるため、身体を巻き込めるようになるのだ。
 身体性の抑圧がさして必要でなくなったのは、ウェーバーがいうように、社会のさらなる脱呪術化がある。脱呪術化とは、呪術や宗教が消えることではなく、社会システムが呪術や宗教から相対的に無関連に回るようになること。
 後期近代の社会システムは、身体性の再拡張をある程度は許容していることになる。身体性の拡張が「近代の外部」を指し示すものだと軽々に考えてはいけない。(以上、p254-257の要約)


 宮台によれば、イエス・キリストデリダとローティはいずれもアイロニスト、ということになる。
「構築は否定されず、実践は否定されないけれど、永久に疑われる」(p274)

 近代社会では「終わりなき再帰性」によって、どのような外部も内部化される。言い換えれば、どこかに屈折したアイロニストがいるという話ではなく、〈世界〉自体をアイロニー――全体の部部への対応――として見いだす。「終わりなき再帰性」によって、超越も外部も全体も非日常も宗教も、排撃はされないものの、効力を奪われて無害化される。ウェーヴァーの「脱呪術化」や「世俗化」の概念は、終局、このことを述べている。すると奇妙なことに、「終わりなき再帰性」のゲームに勤しむ私たちの営みが存在するということ自体、端的な未規定性としてあらわれてくる。
 いまや、かつてのような意味での超越や伝統や本来性(近代の外)はありえない。近代社会では、超越も伝統も本来性も、再帰的な生成物だ。すべの外部は内部であり、全体は部分だ。だから私たちはアイロニズムというポジションを手放すわけにはいかない。
 自己決定は、存在しないといえば存在しない。共同体も、存在しないといえば存在しない。自己決定の概念も共同体概念もマユツバであるにもかかわらず、自己決定は存在する、共同体は存在する、という想像的な前提抜きには、前に進めないのが私たちの日常なのだ。(以上、p272-277の要約)

 
 この本を出した「双風舎」からは宮台の対談本『挑発する知』が出ているが、『日常・共同体・アイロニー』のほうが内容が濃い。社会学の基礎講座ふうの作りにもなっているが、かなり議論が集中しているし噛み合っているので、基礎講座の部分を超えて現実政治へのコミットメントも興味深い。もっとも、宮台の主張にはいつもながら「ちょっとぉ」と思う部分は多々あるが。

 映画「パッション」の解説はおもしろかった。なぜイエスがかくも壮絶な苦難を耐えたのか? あの映画は何を描きたかったのか? 興味のある方は本書をお読みのこと。

 それにしてもミヤダイは口が悪い。「馬鹿左翼」だの「カルスタ・ポスコロ野郎」だのというのは下品だねぇ。やめてほしいわ。

 本書については葉っぱ64さんが何度かブログでとりあげておられる。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050403/p1
 葉っぱ64さんのご推薦でこの本を読み始めたわけだけど、やっぱり目利きがいいです、さすが。いつもおもしろい本を教えてくださってありがとうございま~す。




 ということで、ようやく二冊目の本の紹介を。

 『いきなりはじめる浄土真宗』の続編、『はじめたばかりの浄土真宗』を再読する。一回目読んだときにぴきぴきーんときた部分がどこだったのか、わからなくてあせっている。コメントをブログに書こうと思っていたのに、いったにどの部分を引用しようとしていたのかわからない。あちゃー、しまった、付箋つけとけばよかったよ。

 宮台もやたら宗教に詳しいけど、こっちは本物の宗教家釈徹宗さんと宗教的マインドに溢れた内田樹先生の往復書簡だから、内容は当然宗教宗教しているわけだが、釈さんの立ち位置が宗教を脱構築するようなところにあるから、ものすごくおもしろい。むしろ内田センセイのほうが宗教者じゃないかと思えるぐらい。

 制度宗教には日常からの逸脱よりも日常への還元に力を入れているところがある、というくだりにヒットしたのかな。と思って読み直してみたけど、どうも違うみたい。制度宗教が日常へ戻ってくる引力が強いということは、それだけ保守的っていうことやんか。社会を破壊する力には欠けるわけだ。うーん、ちょっとよくわからないけど、とにかくこの本もおもしろかった、ということで。ものすごく読みやすいから、『いきなりはじめる浄土真宗』とセットでお読み下さい。

 というかんじでお茶を濁す。ポリポリ

<書誌情報>

 日常・共同体・アイロニー : 自己決定の本質と限界
   宮台真司, 仲正昌樹著  双風舎, 2004


 はじめたばかりの浄土真宗 / 内田樹, 釈徹宗著.
   本願寺出版社, 2005. (インターネット持仏堂 ; 2)