同じ本について3度も書くのは初めて。
よっぽどこの本は衝撃が強かったのだろう。
中国経済論専攻のkaikaji(梶谷懐)さんのブログを読んでかなりいいヒントを与えて頂いた。
じつは梶谷さんのbk1書評はよく読んでいたのだが、厳しい評が多くて、「研究者はこんなふうに厳しく読むんだなあ」と常々感じていた。わたしは自分自身が無知なのでたいていどんな本を読んでも「いいことが書いてある」と思ってしまうのだけど、この厳しさはどこに由来するのだろうとふと考えた。
それと同時に、保苅さんのこの本がどんなに欠点をいくつももっていようが素晴らしいものであることは否定できないと思うので、わたしは絶賛するのだが、それに対して梶谷さんの次の言葉にはっとした。
<<この本についてはネット上でもすでにいくつか書評が発表されているけど、そのほとんどが、絶賛というより個人的な思い入れを過剰なほど前面に出した書き方になっているのが印象的だ。その気持ちは確かにわからないではない。ただ、僕が思うのはそうやってこの本が一種の神格化の対象となってしまうことは多分この本の著者が一番望んでいないだろう、ということだ。
人が「歴史と記憶」の問題について好んで語ろうとするのは決まって戦争や「国民の歴史」が絡んでくる時であり、それがいつもこの問題に政治的な色合いを与えてしまう。しかし、そういった政治的な思惑を一旦離れた「実在」というものに関する純粋に哲学的な探求として、例えば「経験」に対して真摯なラディカルなオーラル・ヒストリアンと科学的「実在」に対して真摯な科学哲学者との間に対話は可能なのではないか、そこに何か大きな可能性が見出せるのではないか>>
そして、これはわたしが梶谷さんのブログのコメントにも書いたことだが、本書についての不満点や限界点は以下のようなところにあると感じる。
それはすなわち、「歴史の普遍性」「実証主義」などといった言葉について保苅氏が定義を曖昧にしたまま使用したことだ。ほかにもいくつも、歴史哲学上の論争に上がりそうな形而上学の用語はいくつも登場するし、そのいちいちについて保苅さんは用語解釈を避けて使用している。たぶん、そういった「哲学的論争」に保苅さんは首を突っ込むつもりがなかったのだろう。ただ、その定義が曖昧なままであるため、誤解を生む場面や、読者が首をひねるような文脈もまた否定できない。
ホカリは形而上学的空論をきらってフィールドに出た歴史家だったのだ。彼のもやもやと形をもたない思想もまた星雲の志がよく現れたものだ。若くして亡くなったことをこれほど惜しまれる人も少ないのではなかろうか。梶谷さんのブログへこのようなコメントが寄せられていた。
<<彼は「背中が痛いんだ」「精密検査の結果待ちで・・」と病状を訴えつつ、女性のキャリーバッグを持ってあげるような、このギョウカイには珍しい(・・失敬・・)紳士でした。明るくユーモアのセンスがあり、ハンサムで優しく、フェミニストだったから、老若問わず女性に大人気でした。シンポでの発表は素人が聞いても面白く、分かりやすい表現で難しいことを話す天才でした。>>(by ナンシー北京さん)
惜しい人を亡くしたという言葉を一万回保苅さんに捧げたい。合掌。
『ラディカル・オーラル・ヒストリー』についてのkaikajiさんのコメントはこちら
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050202
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/comment?date=20050208#c