吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

メモ:『性の歴史』第1巻「知への意志」

 まずは簡単に書誌来歴を

 本書は『性の歴史』全5巻の第1巻として1976年11月にガリマール社から上梓された。フーコーのもくろみでは、『性の歴史』は全5巻となるはずであったが、途中で構想が変わり、じっさいには3巻までだけが刊行された。

 当初の予定では
 1巻 肉体と身体
 2巻 少年十字軍
 3巻 女と母とヒステリー患者
 4巻 倒錯者たち
 5巻 人口と種族

 ところがじっさいにはかなり変更されたかたちで全3巻が刊行された。第1巻は全体の序論ともいうべき位置づけだが、この「序論」がじつにおもしろい。第2巻は少々だるくて退屈だ。


 さて、フーコーは『知への意志』において、性(セクシャリティ)にまつわる言説の歴史をたどることにより、権力と抑圧の本質へ向かおうとする。

 性は語りを禁じられる。性は夫婦の寝室に閉じこめられる。慎ましく、語ることを禁じられる。……だが、誰によって? 権力が禁じる? どんな権力が?

 たとえば子どもには性がないものとされ、性を禁止され、注意深い沈黙が適用される。
 
 「これが抑圧というものの特性のはずであり、つまり抑圧を、単に刑罰の方が支えている禁止事項と区別するものなのだ。抑圧は、確かに消滅すべしという断罪として機能するが、しかし同時に沈黙の強要、存在しないことの確認、従って、そういうことすべてについては何も言うことはないし、何も見ることはなく、知るべきこともないということの証明でもある。このように、跛行的な論理をひきずって、我らのブルジョワ社会は進行しているはずなのだ」
 (p11)

 性は抑圧されているから、性について語ることは禁じられているから、それなれば性について語ればそれが革命的なことか? Non、とフーコーは言う。



 西洋科学文明は性愛の技術を持たない社会だ。そのかわりに性の科学を持つ唯一の文明。西洋文明では中世以来、「告白」が主要な儀式となって、性を<知である権力>へと結びつけた。「真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきた」(p76)


 西洋近代は「死の権力」から「生権力」へと向かった。「性」は「抑圧」と同義ではなく、性は言説化されるようになる。

 (この項、続く)
 

<目次>

第1章 我らヴィクトリア朝の人間

第2章 抑圧の仮説
  1 言説の煽動
  2 倒錯の確立

第3章 性の科学

第4章 性的欲望の装置
  1 目的
  2 方法
  3 領域
  4 時代区分

第5章 死に対する権利と生に対する権力

 訳者あとがき