まずは簡単に書誌来歴を
本書は『性の歴史』全5巻の第1巻として1976年11月にガリマール社から上梓された。フーコーのもくろみでは、『性の歴史』は全5巻となるはずであったが、途中で構想が変わり、じっさいには3巻までだけが刊行された。
当初の予定では
1巻 肉体と身体
2巻 少年十字軍
3巻 女と母とヒステリー患者
4巻 倒錯者たち
5巻 人口と種族
ところがじっさいにはかなり変更されたかたちで全3巻が刊行された。第1巻は全体の序論ともいうべき位置づけだが、この「序論」がじつにおもしろい。第2巻は少々だるくて退屈だ。
さて、フーコーは『知への意志』において、性(セクシャリティ)にまつわる言説の歴史をたどることにより、権力と抑圧の本質へ向かおうとする。
性は語りを禁じられる。性は夫婦の寝室に閉じこめられる。慎ましく、語ることを禁じられる。……だが、誰によって? 権力が禁じる? どんな権力が?
たとえば子どもには性がないものとされ、性を禁止され、注意深い沈黙が適用される。
「これが抑圧というものの特性のはずであり、つまり抑圧を、単に刑罰の方が支えている禁止事項と区別するものなのだ。抑圧は、確かに消滅すべしという断罪として機能するが、しかし同時に沈黙の強要、存在しないことの確認、従って、そういうことすべてについては何も言うことはないし、何も見ることはなく、知るべきこともないということの証明でもある。このように、跛行的な論理をひきずって、我らのブルジョワ社会は進行しているはずなのだ」
(p11)
性は抑圧されているから、性について語ることは禁じられているから、それなれば性について語ればそれが革命的なことか? Non、とフーコーは言う。
西洋科学文明は性愛の技術を持たない社会だ。そのかわりに性の科学を持つ唯一の文明。西洋文明では中世以来、「告白」が主要な儀式となって、性を<知である権力>へと結びつけた。「真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきた」(p76)
西洋近代は「死の権力」から「生権力」へと向かった。「性」は「抑圧」と同義ではなく、性は言説化されるようになる。
(この項、続く)
<目次>
第1章 我らヴィクトリア朝の人間
第2章 抑圧の仮説
1 言説の煽動
2 倒錯の確立
第3章 性の科学
第4章 性的欲望の装置
1 目的
2 方法
3 領域
4 時代区分
第5章 死に対する権利と生に対する権力
訳者あとがき