「めぐりあう時間たち」については前にも少し書いたけれど、今般、雑誌『Becoming』14号に掲載された西山けい子さんの論文を読んで、映画の感動が甦ってきた。
映画に登場する3人の女性たちに共通するモチーフは、ヴァージニア・ウルフのいう「存在の瞬間」を生きるとことだという。
<<ウルフは、…… 日常には「存在の瞬間(moments of being)」と「非存在の瞬間(moments of non-being)」があるとしている。強い感動を受けたとき、あるいは強烈な恐怖を感じたとき、自分という意識が失われ、自分が一個の感覚の受容器になってしまうことがある。それがウルフのいう存在の瞬間である。存在の瞬間が意識される日は彼女にとっては「よい日」であるが、たいていははるかに多くの非存在の瞬間が真綿のように存在の瞬間をくるんでいる>>
西山さんは、この「存在の瞬間」を感じながら生きる女たち(男も)と、「非存在」の時間を生きる者達との相容れなさをキーワードにこの物語を読み解く。
ウルフの「存在の瞬間」という体験は、彼女の哲学を生み出す。それは、「日常のありふれたものが突然別の様相をもって立ち現れ、世界が刷新される経験、作田啓一のいうところの<溶解体験>」だという。
さらに西山さんは作田啓一を引用しつつラカンとレヴィナスをつないで、「他者」へと言及していく。ラカンとレビナスと「他者」、とくれば内田樹さんの最新刊『死者と他者』ではないか。これも早く読まなくては。
西山論文は映画及び小説「めぐりあう時間たち」の魅力を存分に引き出してくれた。
ただ一つ疑問が残ったのは、「表層の自己」と「深層の自己(ほんとうの自分)」という分裂だ。平凡で幸福そうな主婦ローラが表層の自己と深層の自己に引き裂かれて死を願うという解釈はありきたりで、もう少し違うところから解釈してほしかった。あるいは、そのありきたりさを、映画『めぐりあう時間たち』はあそこまで素晴らしく描いた、という意味でも傑作なのだろう。
ますます『ダロウェイ夫人』を再読したくなった(今度は丹治訳で)。また、未読の『めぐりあう時間たち』も読みたいし、映画ももう一度見たい。
映画の感想は「シネマ日記」に書きました。urlはここ↓
http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/040119.htm