吟遊旅人のシネマな日々

歌って踊れる図書館司書、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)の館長・谷合佳代子の個人ブログ。映画評はネタばれも含むのでご注意。映画のデータはallcinema から引用しました。写真は映画.comからリンク取得。感謝。㏋に掲載していた800本の映画評が現在閲覧できなくなっているので、少しずつこちらに転載中ですが全部終わるのは2030年ごろかも。本ブログの文章はクリエイティブ・コモンズ・ライセンス CC-BY-SA で公開します。

「季節の記憶」 中公文庫

季節の記憶
保坂 和志著 : 中央公論新社 1999

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今になって気づいたことは、『カンバセイション・ピース』になぜのめり込むような魅力を感じなかったのか、その理由は「猫」にあったこと。問題は「猫」だ。
 要するに私は猫が嫌いなのだ。亡き猫への愛着を恋々と書かれるとうんざりしてくる。だから、『この人の閾』に猫の代わりに犬が登場したときとても好感を抱いたし、こんどは動物が出てこないから、いっそうよい。

 猫や犬の代わりに、と言ってはなんだが、今回は5歳の子どもが登場する。主人公であるフリー編集者の「僕」は、離婚して5歳の息子と一緒に鎌倉に引っ越してきた。そして、息子を媒介にして知り合った近所の人々とのつきあいや、古くからの友人・昔の仕事仲間などとの交流が綴られる。

 相変わらず何も起こらない淡々とした日常生活と思考が描かれるといういつものパターンであるが、今回は登場人物の魅力が傑出していて、さらには子どもの言動が生き生きと描かれているので、小説世界に引きこまれたまま時間が心地よく過ぎていった。保坂自身が、よい小説はいつまでも読んでいたいと思わせるものだと『書きあぐねている人のための小説入門』で書いていたが、まさに本作はそのような小説だ。

 魅力的な登場人物の一人、「僕」の息子クイちゃんの言動のおもしろさというのはあくまでも親の目から見たものであって、それは同時に私の息子たちが5歳だった頃の子育ての記憶を呼び覚ましてくれ、改めて感動したり懐かしく切ない思いに胸ふたがれた。「そうそう、子どもってすごいよね」とか、「うわあ、よくそんな細かいところまでちゃんと人間を観察してるね」などといつの間にか主人公と対話している自分に気づく。

 何より、「僕」の子育ての構えがいい。子どもにだって手を抜かずに、世界を掴むための説明を怠らない。だから、読者は「僕」が子どもに説明する「時間ってなに」とかアリやゾウにはそれぞれが選んだ大きさがありそれに相応しい形が決まっている、というような世界の成り立ちについての説明とかを聞くと(読むと)、自分が子どもになったような気になってクイちゃんと一緒に肯いたり眼を輝かせたりしてしまう。

 細やかな日常生活の転写とともに思考の軌跡が語られるために、すすっと登場人物たちが酒を飲んでいる居間に上がりこみ、「そうそう、そういうのってわかるわあ」とかなんとか言いながら私も一緒にビールを飲んでしまいそうになる、そんな小説なのだ。

 「僕」をめぐるごく狭い人間関係の中に、ある日ナッちゃんという異質な人物が闖入してくる。ナッちゃんに対して「ぼく」はよい印象をもてないのだが、日が経つにつれ、そのナッちゃんへの感情が微妙に変化していく様が印象深い。軽い嫌悪感を催すような他者への距離感やその人物像を観察する目が少しずつ変わっていく様子も好感が持てる。他者への眼差しが変化していく心理をこと細かく描く保坂の言葉の力は、他者と自己との距離のとりかたや自己と世界との折り合いの付け方の一端を見事に描いていて、私は思わず引き込まれてしまった。

 そして、唐突に終わるこの物語は、撒いた種の結果を読者に知らせず宙づりにしてしまう。だが、よく考えれば日常生活には死ぬまで「終わり」や「結末」なんてないのだ。たとえ小説の中で何らかの決着をつけたって、登場人物たちはその後もきっと小説世界でずっと終わらない日常を生き続けるに違いない。だから、この小説の宙づりほど小説世界の永遠を感じさせるものはないのだ。

 保坂の作品を全部読んだわけでないのに断言してしまおう、これが保坂和志の最高傑作である。だらだら感などみじんも感じられない、きっちり計算され尽くし、ある収束点に向かって見事に編み上げられた作品だ。