この本は『敗北を抱きしめて』と重なる時代を分析しているのだが、『敗北を抱きしめて』ほどにはサクサクと読めない。かなり時間がかかっていて、読了するのに2週間ぐらいかかるんじゃないかな。とほほ。
同時並行であと3冊ほど読んでるが……
サクサク読めない理由として、大量の人名に惑わされていることが挙げられる。
本書は戦後思想史を分析する大著だから、大勢の知識人の名前が登場する。分析対象となっている人々の著作になじみがなければ、理解するのにかなり努力が必要だ。参考文献を読みながら(人名辞典とか著作紹介文献とか)でないと、前に進めないこともしばしばだ。
逆に、なじみの研究者の名前が続出するところでは、過去に読んだ彼らの著作が頭をよぎって、独特のノスタルジーにひたってしまう。
とりわけ、第8章「国民的歴史学運動」の章では、わたしが学生時代、既に老大家だった歴史学者たちの若き日々が描かれ、たいそう興味深い。思えば、このように一時代をなした研究者たちの薫陶を受けることができたわたしはとても幸せだったのだ。でも、当時はその特権的幸福にまったく気づいていなかった。
不勉強で傲岸不遜な学生だった我が身が恥ずかしい。ちゃんと勉強して先人たちから学べばよかったと今頃反省している。
とにかく本書は、戦後知識人の思想にわけいる分析がたいそう興味深く、わたしは『敗北を抱きしめて』よりもずっと深いその思惟の世界に耽溺している。
著名な思想家とは、ユニークな思想を唱えた者のことではない。同時代の人びとが共有できないほど「独自」な思想の持主は、後生において再発見されることはあっても、その時代に著名な思想家となることは困難である。その意味では著名な思想家とは、「独創的」な思想家であるよりも、同時代の人びとに共有されている心情を、もっとも巧みに表現した者である場合が多い。(p20-21)
戦後思想の展開は、戦争をどのように体験したかということにかかっていたという。つまり、世代によって、戦後の知識人のスタンスの基本が決まったのだ。
「ナショナリズムとデモクラシーの綜合」という思想、「民主」と「愛国」の両立は、戦争体験の記憶という土壌のうえに成立していたものだった。(p103)
わたしは若い頃、明治20年からおよそ100年ぐらいの間に発行された新聞を通読するという仕事を10年以上続けたために、その時代の言葉遣いというものに慣れ親しむ希有な機会を得ることができた。
だから、本書で小熊さんがやろうとしたことに目新しさは感じない。つまり、同じ言葉が時代によって異なってとらえられていたという事実は、わたしにとっては当たり前のことだったのだ。わたしだけではなく、歴史学者にとってはそれはあまりにも当然のことだったので、誰もそんな「言説」にこだわって分析する者がいなかったのだろう。
本書で大きなキーワードは「民主主義」や「民族」「愛国」「市民」といった抽象的な用語なのだが、確かに、それらの用語が歴史的にどのように変遷していったかを分析することがそのまま、戦後思想史を跡づけることになる。
わたしが、「思想を表す用語が時代によって異なった意味で流通した」ということを当然のこととして受け止めていたといっても、その根拠となる言説は当時の新聞や雑誌に掲載されたものである。わたしはそれぞれの知識人の書いたものを丁寧に読んだわけではなく、小熊さんが分析した思想家のうち、まったく未読のものも多い。
だから、本書のように精緻な分析をされると、実に小気味よく、新鮮な感動を覚える。
本書はあと半分残っているが、これを舐めるように読んで楽しみたいと思っている。